第一部『promise promise ..... promise』【1】

 ―― 20XX年4月、大阪。
 
「俺と結婚して欲しい……」
 
 大阪駅から、少し北東へ行った郊外にあるフランス料理店での事。
 美味しいブルゴーニュ地方の食事を終え、食後のコーヒを味わってる時にその言葉が発せられた。
 目の前にいる彼……32歳の高原秀明(たかはら ひであき)が、真剣な眼差しで亜弥にプロポーズをしたのだ。
 高原は、亜弥の目の前に蓋を開けたベルベットの小箱をゆっくり置いた。
 そこには、0.7カラットぐらいの一粒のダイヤモンドの指輪が鎮座していた。
 
 桜が既に散り始めた4月の初旬、進級した人・社会人になった人等が胸躍らせるこの月に、あたしにもやっと春が訪れた。
 しかし、亜弥はテーブルクロスの下で思い切り両手を握り締めていた。
 いいの? ……ここで妥協してもいいの? 
 あたしは焦ってる。友達は皆幸せな結婚をして、あたしだけがポツンと取り残されたような気分がしているのは事実だ。
  もし、これを逃したら……あたしは一生結婚できないかも知れない。
 それでもいいの? あたしだって子供が欲しい。そして、あたしを……あたしだけを愛してくれる夫が欲しい!
 でも……あたしは、目の前にいる高原さんが好きだけれど……愛してはいない。
 
 
 あたし、如月亜弥(きさらぎ あや)は、つい先日誕生日を迎えて29歳になった。
 仕事は……順調とは言えない。未だにバイトの身分。
 大学を卒業して銀行に就職したが、この不況からリストラを宣告された。その時付き合っていた会社の先輩は、さっさとあたしを捨てた。
 別れの言葉は、酷く冷たかった。
 あたしの不安を感じ取ってくれなかった男。
 そんな男とは、別れて正解だった……と思えるほど、あたしは強くはない。心の中は張り裂けそうな程荒れ狂い、それは少なくとも3ヶ月は続いた。
 職と恋、両方を一度に失ったからだ。
 そんなあたしの支えをしてくれたのが、7つ離れた弟・篤史(あつし)だった。
 やんちゃで……関西の男だとはっきりわかるぐらい、口が上手い弟。
 その篤史だけが、あたしの味方だったのだ。
 
「姉ちゃん、大丈夫やって。何も心配せんでええでぇ、俺が姉ちゃんを守ったるから」
 
 24歳の姉に向かって、17歳の弟が言った言葉だった。
 思わず涙が溢れそうになったのを、今でも覚えてる。
 あたしは、篤史に頼られる存在であるべきなのに、弟はあたしを包み込んだ。
 あの小さかった弟が、姉を思う優しい男性に成長したのを目の当たりにして、胸が熱くなった。
 
「亜弥?」
 心配そうに問われて、亜弥は白昼夢を追い払った。
 そうだ、あたしは今念願のプロポーズを受けている。
  ……愛してもいない男から。
「俺はもう33歳だし、家庭を持ちたいと思ってる。その家庭には、亜弥にいて欲しいんだ」
 亜弥は、思い切り手を握り締めた。
 高原さんは、あたしを愛してくれてる。
 付き合い始めてまだ3ヶ月、躰の関係だってまだないのに……それなのに、あたしにプロポーズを!
「返事は急がない……って言えば嘘になる。本当は今すぐにでも返事が欲しい」
 どうしよう、どうしよう! 今を逃せば、もう結婚出来ないかも知れない。そして、返事をする時間を貰えば、あたしは尻込みしてしまう……絶対に。
 それなら、うんと……イエスと言ってしまった方がいい。
 いつか、あたしも高原さんを愛するようになるかも知れないもの。
 それに、結婚した友達が言ってたじゃない。
『好きな人と結婚するより、好きになってくれた人と結婚する方が、幸せになれるよ』と。
『好きの気持ちが大き過ぎると、相手が浮気するのを心配ばかりしてしまうんだよね。でも、相手が自分にぞっこんなら、そんな心配しなくてもいいしさ。ほら、想うより想われろって言うじゃない?』とも言った。
 友達の言葉は、全く理解出来なかった。
「愛する人と共に生活するから、人生を一緒に過ごせるんじゃない?」 と言うと、バカにしたように鼻で笑われた。
 
「亜弥?」
 再び我に返った。
 取り残されたくないってずっと思っていたから、このプロポーズは喜んでいい筈なのに、何故か戸惑ってしまう。
 それは……やっぱり、あたしが高原さんを愛していないから。
 でも、この機会を逃したら……あたしは一生独身かも知れない。
 そんなのイヤ! 絶対イヤ!
 亜弥は、面を上げて高原を見つめた。
 彼の身長は180cmと背が高く、肩幅はがっちりしていて、胸板は厚い。そう、体躯は文句のつけようがないほど引き締まってる。
 凛々しい眉の下にある目はキリッとした切れ長で、思わず吸い込まれそうになる時もある。
 鼻は少し大きいが、唇は薄い……でも、その柔らかさは実証済みだ。
 さらに、高原さんはあの一流企業“水嶋”グループの大阪支社の土地開発部門で働く、有能な営業マン。
 将来の見通しは安泰だ、玉の輿と言ってもいいと思う。
 その彼が、どうして今まで独身だったんだろう? 付き合う女性には問題がなかった筈だ。
 それに引き換え、 あたしは駅前の医院でしがない医療事務のバイト。
 高原さんの前に付き合った彼といえば、5年も前の話だ。
 何故、あたしなの?
 確かに、何故高原が亜弥を選んだかわからない。
 亜弥は、身長は168cmと大きい方だが、躰の線はほっそりと引き締まり、出るところは出てる(と思う)。ハッと振り返られるような美人でもないが、それでも化粧をすればそこそこ見られる容姿だ。
 でも、それが問題だった。
 この年齢まで結婚していない、ほんの少しでも見目のいい女は、欲が深い・冷血女・情が薄い等と思われ、敬遠がちになる。
 本当は、そうじゃないのに……
「高原さん、本当にあたしでいいの?」
 その答えに望みをかけた。
 彼が本当に望むなら、あたしもそれに賭けてみよう、と。
「亜弥と会った時から、俺の奥さんは亜弥しかいないってわかったんだ。亜弥を愛してる」
 亜弥は瞼を閉じた。
 決心しよう。あたしをこれだけ想ってくれているのなら、あたしは愛されて幸せになれる。
 子供も出来れば……激しく情熱的ではないかもしれないけれど、穏やかな愛で家庭を包み込めるかもしれない。
 ゆっくり瞼を開け、高原を直視した。
 
「あたし、お受けします」
 
 そう答えた瞬間、彼の表情は喜びに包まれず、安堵の表情が浮かんだ。
 その表情が、思わず心にブレーキをかけた。
 結婚したいと思った女性にプロポーズし、YESという返事を受けたというのに、どうして歓喜に包まれず……ホッとした安堵の表情を見せるのだろう?
 もっと見極めようとしたが、高原の手が亜弥の手を取った。
 そして、台座から指輪を取ると、左手の薬指にそっと填めた。
 一瞬で凍りついた。
 何か間違った事をしたような感覚が、亜弥を襲う。
 ダイヤモンドが冷たく光り、亜弥を鎖で縛ったようにさえ思えた。
「ありがとう、亜弥。これからの事、ゆっくり話そうな」
「うん」
 そう答えたものの、本当にこれで良かったのかわからない。
 
 事実、亜弥がこの婚約を後悔するような事が起こるなんて、思いもしなかった。

2004/11/13
  

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