『一筋の光、暗黒への道』【1】

 こんな事は初めてだった。
 何も心配する事もなく問題すら起きていないのに、神経が昂ぶり、眠りに誘われなかったのは……。
 何度も寝返りを打った為に、シルクのシーツには皺が寄り……躰には夜着が絡まり合っていた。
 ふんわりとした柔らかな枕さえ、凹みが無数に出来ている。
 後ろで軽く束ねていたリボンは緩み、髪は乱れて肩へ落ちていた。
 その姿は、まるで奔放に愛し合った後のように見えたが、シーア自身そういう光景を観た事も経験した事もないので全く気にならず、枕をしっかり抱き締めて顔を埋めていた。  
 
 いつものように、可愛らしい鳥の鳴き声が耳に届く。
 カーテンの隙間から差し込んだ太陽の光は、昨夜シーアがこっそり拝借した戦利品に降り注いでおり、それは神々しく白く輝いていた。
 それが目に入ると、シーアは震える手をギュッと握り締め、意を決したように勢いよく身を起こした。
「わたしが今考えなければいけないのは、この奇妙な神経の昂ぶりの原因を探る事ではなく、今日の脱走劇だけよ」
 もうハーレム内の事や、その出来事に心を惑わされなくてもいいのだから。
 シーア付きの侍女、リリアン・ウェイが手水を持ってくる前に立ち上がると、いつも着ているドレスよりも質素なドレスに着替えた。
 髪も複雑に結う必要はないし、宝石だって着ける必要はない。
 ただ道中必要になるかも知れない、小さな宝石類を小袋に入れると、それを戦利品の下へ隠した。
 
 
 ドアが開く音がした為振り返ると、リリアン・ウェイが入ってきた。
「まぁ! 今日は早起きなのですね。ゆっくり過ごされても大丈夫でしたのに」
 シーアは肩を竦めた。
「早く目が覚めてしまって……」
「もしかして、アリーシャさまが明け方近くハーレムへ戻ってこられた騒ぎで?」
 シーアの心臓がドキンと激しく打った。
「……アリーシャさまは、夜明けと共に戻られたの?」
「えぇ、そうなんです」
 リリアン・ウェイは手水をテーブルに置くと、髪を結う為に櫛とピンと宝石を選びながら答えた。
「こんな事は初めてですわ。ローレルさまよりかは、早めのお戻りでしたけれど。今までは、明け方近くに戻ってこられる方は誰もいなかったんです」
「……そう」
 胸を掻きむしられるような痛みを隠す為に手水に近付いたが、手足が震えて上手く水を掬えなかった。
「ローレルさまに “緑晶” の地位を与えたので、今までトップの地位だった緋側さまを慰める為に時間をかけて寵を与えたのかも……、ローレルさま? 大丈夫ですか?!」
 手の中から水が零れてしまい、テーブルを濡らしてしまっているシーアを見て、リリアン・ウェイは驚いたのだ。
 込み上げてくる苦しみ・痛みに涙が溢れそうだった為、シーアはすぐ顔に水をかけた。
「……大丈夫よ」
 手で顔を覆った事でくぐもった声が漏れた。
「水が冷たかったから」
 側に置いてあるタオルで顔を拭うと、リリアン・ウェイに微笑んだ。
 だが、リリアン・ウェイはシーアの顔をジッと眺めると、ゆっくり頭を振った。
「安心して下さい、ローレルさま。殿下はローレルさまに “緑晶” の地位を与えたんです。それはつまり他の側室よりも強い想いを抱いていらっしゃるという事です。殿下の寵愛が他の側室に向けられても、それはご愛敬ですわ。ローレルさまへの寵愛は変わる事はありません」
 リリアン・ウェイの見当違いは甚だおかしな話だったが、シーアは口を挟まず、彼女の考えを覆そうとはしなかった。
 わたしはもうすぐ居なくなる。だからここで意義を唱える必要はない。
 でも……
  シーアは、そっと両手で胸を押さえた。
 何故かリリアン・ウェイの言葉が心を軽くした事に、シーアは驚いていた。
 
 凝った髪型にしようとするリリアン・ウェイに、シーアは簡単にするように言った為、彼女はがっくりと肩を落としていた。
 リリアン・ウェイの立場はわかっていたが、シーアはすぐに解く髪に時間をかけさせたくなかったのだ。
 ただ、彼女は宝石だけは譲らなかった。
 いらないと言うシーアに対して、シュザックから贈られた特別なエメラルドの宝石を突きつけるリリアン・ウェイ。
 二人はお互いに妥協し、小さな宝石なら……とシーアは折れたのだった。
 側室“緑晶” の地位に相応しいエメラルドのピアスにペンダントを着けると、少しだけ満足したように頷いた。
「今日は、ハーレム内で一番の輝きを放って欲しかったんです」
 質素な装いだったが、それが却って清楚な美しさが際立ち、リリアン・ウェイは惚れ惚れとシーアを見つめた。
「どんな装いをされても、美しさを引き出せる……さすがですわ」
 シーアを崇拝するように見つめるリリアン・ウェイの瞳を見返す事が出来ず、そっと視線を伏せた。
 リリアン・ウェイにさえ嘘をついてもうすぐ出て行こうとしている時に、そういう眼差しを受ける資格はなかったからだ。
 シーアは、咳払いを一つした。
「今日の朝食はいらないわ。でも新鮮なジュースは欲しいわね」
 シーアの夜着を腕にかけると、リリアン・ウェイは微笑みながら頷いた。
「すぐにお持ちいたします。いつもの場所で摂られますか?」
 いつもの場所とは、中央の噴水側に設置された場所を指していた。
 これまでと変わらない行動を取るべきだとわかっていたシーアは頷いた。
「では、すぐにお待ちいたします。……これも洗濯でしょうか?」
 リリアン・ウェイが、シーアの戦利品に近寄るのを見てハッと息を飲むと、急いで彼女の腕を掴んだ。
「いいえ! それは……いいの」
 慌てたシーアの態度に、首を傾げたリリアン・ウェイだったが、気まぐれな女性たちに以前仕えていたからか、あっさりとシーアの言葉に頷いた。
「わかりましたわ。それではお庭でお待ち下さいね」
 リリアン・ウェイが優しく微笑みながら部屋を後にすると、シーアはいつの間にか肩に入っていた無駄な力をそっと抜いた。
「何かを誤魔化す事が、こんなにも心苦しいなんて」
 その気持ちをどう整理すればいいのかわからないまま、シーアは中庭へ向かった。
 
 
 朝が早い為、シュザックの側室や寵愛を受けた美女の姿は少なかったが、彼女たちがシーアが現れた事に気付くと、これ見よがしに大きな声で話し始めた。
「やっぱりアリーシャさまが一番なのよね。だから明け方までお離しにならなかったんだわ」
「その寵を、少しでもわたくしに分けて欲しいとは思うけれど……相手がアリーシャさまでしたら何も言えませんわね。見惚れてしまうぐらいの美しさだけでなく、ホークさまをお助け出来る地位までも、生まれながらお持ちですもの」
「そうよね。わたくしたちでも、少しはお助け出来るお父様が居るけれど、アリーシャさまのお父様には敵わないわ」
「……どこの生まれかわからない平民あがりの側室は、そっと後ろに控えていればいいのよ」
 平民あがりの側室……
 シーアはばかばかしくなって、嘲笑うように唇の端を上げた。
 もしココがルーガル王国なら、わたしは彼女たちより身分はずっと上だわ。
 そんな身分なんて、欲しいと思った事は一度もないけれど。
 ましてや、〔水晶の祈り〕 で齎された運命に、どれほどの自由を失ってきたか。
 こんな身分、わたしはいらないわ。
 そんなシーアの表情を盗み見ていたハーレムの女性たちは、醜く顔を歪ませると、シーアに近寄ろうとした。
 
「失礼ながら、お言葉をお控え下さいませ」
 シーアは、その言葉に視線を上げた。
 そしてその女性の輝くような宝石・ダイヤモンドを見て、彼女もシュザック皇子の側室の一人だというのがわかった。
 確か……強く望まれて “白晶” 地位を戴いたという女性だろう。
「あなたたちは、ホークさまの母君を侮辱なさったのよ」
 その言葉で、影口を叩いていた側室たちがギュッと口を噤んだ。
「軽々しくそういう事は言わない方がいいわ。側室といえども、殿下の寵愛が遠ざかればココから出される事になるのよ」
 そこでチラッとシーアに視線を向けた。
「それに、今では “緑晶” の地位を賜ったジェイダイトさまがいらっしゃるのだから」
 その時、彼女の瞳に何かが浮かんだのを、シーアは見逃さなかった。
 今のは……何?
 だが、それが何かわかる前に、白側は視線を他の側室へと向けた。
「……ホークさまに告げ口されないよう祈っておく事ね。ほら、ハーレムの女官長さまがこちらを観ているわよ」
 その一言で、彼女たちは慌てて散り散りに去って行った。
 シーアは助けてくれた御礼を一言と思ったが、白側は会釈をするとその場から立ち去った。
 
「白側さまは、与えられた称号のように中立のお立場なんです」
 ジュースを持ってきてくれたリリアン・ウェイは、今の騒ぎを観ていたのだろう。
 シーアの前にジュースを置くと、再びリリアン・ウェイは白側の横顔を眺めた。
「可哀想な白側さま……、でも今はローレルさまが “緑側” となられたからには、きっと素敵な事が起こりますわ」
 一人でぼそぼそ呟くリリアン・ウェイの言葉が耳に入らないよう、シーアは耳を両手で塞ぎたい気持ちだった。
 もうやめて!  “緑側” なんて……そんなのは必要ない!
 わたしは、わたしであって……、ただ早くルーガルへ戻りたいだけなのよ!
 シーアはジュースを掴むと、一気に飲み干した。
 そう、ルーガルへ戻りたいだけ。
 戻る絶好のチャンスは……一刻一刻と迫ってきている。
 その準備をしなければ。
 決意を秘めながらも、シーアの視線はいつの間にかシュザックの宮を見上げていたが、その事実に全く気付いていなかった。

2007/03/08
  

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