『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【37】

 躯が、痛い……
 頭も鈍器で強打されたみたいにズキズキし、嘔気さえ込み上げてくる。
 
 いったい何があったのだろう……
 
 頭の中に霞がかかり、上手く思い出せない。
 誰かに殴られた? でもそんな真似をされるようなことをした覚えはない。
 確か、ずっと鈴の音が鳴り響いていて――と思った瞬間、千珠はハッと目覚め「泰成さま!」と声を出した。
 だが、急に目を開けたせいで視界がぐるぐる回り、再び力なく瞼を閉じる。
 
 起きなきゃ。起きて、今の状況を確かめなければ!
 
 最後に泰成の腕に抱きしめられ、そして意識を失い、今は横たわっている。
 しかも、初めて泰成の元へタイムスリップした時と同じように、躯の節々は筋肉痛の痛みが走っていた。
 
 違う、違う!
 
 そう自分に言い聞かせるものの、泰成や小牧の声は聞こえない。千珠を助け起こそうとする手の感触すらない。
「……っ!」
 千珠は嗚咽が漏れそうになって必死に奥歯を噛み締めて、ゆっくり目を開けた。
 目に入るのは、荘厳な幹と地中から顔を出す見事な根。
 千珠は自分がうつ伏せになっていると気付き、ゆっくり躯に力を入れて上体を起こした。
「痛ッ……」
 顔をくしゃくしゃに歪めつつも、なんとか周囲に目をやる。
 記憶にある玉石の敷き詰められた境内、社殿、遠くに見える鳥居。
 ここは、白桜邸ではない。
 千珠がバイトで来た烏丸通り沿いにある護寿神社だ。そして傍にあるのは、白桜邸にもあった桜の大樹。
「わたし、戻ってきちゃったんだ……ね」
 あの幸せな日々を失ったかと思っただけで、涙が込み上げてきた。
 千珠はやり切れない思いでそっと視線を落とす。そこには、壊れた赤い柵が散らばっていた。
「これって……」
 1週間前の記憶が、千珠の頭の中を駆け抜けた。
 鈴の音、眩暈、壊した赤い柵、そして薄れていく意識の中で必死に掴んだ紙垂(しで)。
 あの時と全く変わっていない光景。それはつまり、千珠が倒れてからあまり時間が経っていないということだ。
 千珠は天を仰ぎ、瞼を閉じた。目尻から涙が零れる。
 
 あれは夢? 泰成との逢瀬は幻?
 
 泰成に優しく迎えられたことも、愛を囁かれたことも……そしてセックスをしたことも?
 彼の吐息、肌に触れる手、千珠を激しく突いたあの快感も、全て夢だったのだろうか。
 でも、千珠の記憶は偽りではない。
「だって、わたしは泰成さまの優しさを覚えているもの!」
 その泰成とはもう会えない、温もりを感じられない、楽しい話もできない。
 千珠は俯き、幸せなものが全て零れ落ちた手を見た。
「……えっ?」
 何かを握ってる感覚はあった。それは紙垂だとばかり思っていたが、手を広げたそこにあったのは思ってもいないものだった。
 強く握り締めていたせいで皺が寄っているが、それは見慣れた小袋。
 手にある小袋が誰のものなのかわかった途端、千珠は感情を堰き止められず、その場で泣き崩れた。
 
 やっぱり非現実的な空想ではない。あの出来事は全て事実!
 
 何故なら、千珠の手にあるのは小袋は、泰成がいつも身に着けていた魚袋(ぎょたい=身分を表示するための装飾具)だったからだ。
 千珠が愛を囁き、それに応えるようにして愛を告げてくれた泰成。
 最後の力を振り絞って彼に手を伸ばし、その時に何かを掴んだが、それがこの魚袋だったとは思いもしなかった。
 そのお蔭で、あの泰成との暮らしが偽りではなかったと知ることができた。
「やす、なり……さま! 会いたい、あなたに会いたい!」
 
 泰成の元へ戻りたい。そのためには、これからどうすればいいのだろう。
 
 千珠は自分の姿を見た。
「……あれ?」
 この大樹を守る赤い柵を壊し、紙垂の封印を切った際、千珠は神楽女の衣装を身にまとっていた。
 でも今の姿は、今朝小巻に着せてもらった小袖に袴姿だ。
 これっていったいどういうことだろう。
 時間はそれほど経ってはいないが、着ている衣装は違う。
 それはつまり、時空を飛び越えて元の時間に戻ったと考えられる。
 もしかして、何かきっかけさえあれば、千珠は再び泰成と別れた時間にも戻られるということだろうか。
 一瞬そんなことを思ったが、千珠は力なく頭を振った。
「何バカなことを考えてるの? そもそも、タイムスリップ自体が不思議な出来事なのに、早々同じようなことが起こるわけないじゃない」
 その時だった。
 
 ザッ、ザッ……
 
 誰かが近寄ってくるのか、玉石を踏む音が聞こえる。
「あの、大丈夫ですか?」
 聞き慣れた男性の声を耳にしたと瞬間、千珠の躯が歓喜で打ち震えた。
 
 ま、まさか……
 
 涙で頬が濡れているにも関わらず、千珠は勢いよく振り返った。
 だが、逆光でその人の顔が見えない。あまりにも眩しくて、すぐに手を上げて目の上に翳すものの、千珠の目には彼の首から下しか見えなかった。

2017/03/03
  

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