『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【33】

 ――6日目。
 
「まあ! 近衛少将さまがそのような真似を! 小牧、わかっていましたわ。千珠さまを見るあの目つき、どんなに危険だったか……。でも、まさかお付き合いの長い蔵人少将さまの想い人に手を出されるなんて――」
 力なく頭を振る小牧に、千珠は大丈夫だと告げるように彼女の手を叩いた。
「もう終わったことだから気にしないで」
 朝餉を口に運びながら、昨夜の話を小牧に告げたあと、敦家のせいでめちゃくちゃになった局を掃除した。
 
 それらを終えた午の刻(午前11時〜)。
 千珠は小牧と一緒に布団の柄を決めるべく、反物を並べていた。
 そもそも女主人の使わなくなった着物は女房へ下がり、また女房が着なくなった着物は下女などに与えるようだった。
 つまり、千珠の前にある反物を別の用途で使えば、それだけ下のものへ渡る率が減るということ。
「うーん、それってイヤだな」
「千珠さまは、そのようなことをご心配されなくても良いのですよ。こちらは、蔵人少将さまもお使いになるもの。旦那さまのためにお支度を調えられることだけをお考えくださいませ」
「確かにそうよね。わたしは別になんでもいいんだけど、泰成さまにはお古は勧められない……」
「そうですよ。蔵人少将さまのためにとお思いになってください」
 千珠は小牧の話を聞きながら、開け放たれた格子、御簾、さらに孫廂と廂を挟んだその向こう側に見える庭園と青い空に目をやった。
 泰成は今夜は宿直で、参内する前に顔を見せると伝言が入っている。
 そうなると、彼と会えるのはまだ数時間先。
「泰成さま……」
 彼の名を口にし、面影を思い浮かべたけで、未明に愛し合ったことが鮮明に甦った。
 千珠は俯き、幸せな時間を思い出して口元を緩める。
 その時、突然どこか遠くの方で鳴る鈴の音が千珠の耳に届いた。
 恐怖でビクッと躯が震える。
 千珠はすぐに周囲に目を走らせた。数人の下女が局の外に座ってはいるものの、そちらからは何も音が聞こえない。
 下女たちは面を伏せて、いつ声をかけられてもいいように静かに待っている。
「千珠さま? どうかなさいましたか?」
「……ねえ、鈴の音が聞こえない?」
 千珠は耳をすませて、ゆっくり小牧に目を向ける。
 すると、彼女は顔を青ざめさせていた。
「ど、どうしたの?」
 異変を感じた千珠が怖がるなら、話はわかる。
 でも、何故小牧が顔を引きつらせるのかわからない。
 千珠は小牧の表情を窺っていると、彼女が急に身を乗り出して千珠に詰め寄った。
「な、何?」
「せ、千珠さま。その鈴の音というのは、……もしかしてこちらへ来られた時に耳にしたという、あの音でしょうか?」
 千珠は小牧の目を見て、静かに頷いた。
「同じかどうかはわからない。わたしの耳鳴りかもしれないし。ただ、ちょっと今朝からおかしくて。ねえ、小牧には聞こえない? かすかに……鳴っているとは感じない?」
 眉間に皺が寄るのも構わず、千珠は遠くを見ながらそっと耳をすませる。
 そんな千珠の前に座っていた小牧が、いきなり乱暴に立ち上がった。
「そんな音……聞こえませんわ! 千珠さまの思い違いに決まっています! あの……少し座を外させていただきますわ。早くこのことをお知らせしなければ――」
「えっ? 何!? ……いったいどうしたのよ!」
 小牧は千珠の顔も見ず、几帳を蹴り倒す勢いで歩き出した。
 御簾を上げて廂へ出ようとしたところで、彼女はピタッとその足を止める。
 静かになったせいで千珠にも聞こえる、ドタドタと足音を立てて局へ近寄ってくる音。
 とても上品な歩き方とはいえない。
「小菊、この音は……いったい?」
 千珠は問うように、小菊に問う小牧の背に目を向けた。
「今すぐに確かめてまいります!」
 小牧の顔から血の気が引いている。今まで見せたことのない動揺に、千珠は思わず立ち上がった。
「何? どうしたの?」
 千珠は立ち上がり、小牧の傍へ近寄ろうとする。
 でも、彼女はすぐに振り返ってきつく頭を振った。
「千珠さまは、どうぞそのまま几帳のお傍に――」
 そこまで言った時、すのこ縁を歩く誰かの姿が千珠の目に入った。
 それもひとりではなく、数人の人影。
「あの人たちはいったい……?」
 ボソッと呟いたあと、女房の慌てた「お待ちくださいませ! 先触れをしてまいりますので……」や、「おとどさま!」といった言葉が耳に届いた。
「ねえ、いったいどなたなの?」
 小牧が戸惑う千珠の傍へ引き返すなり、てきぱきと几帳を直す。
 そして、千珠をその場に座るように促し、彼女も隣に腰を下ろした。
「千珠さま。どうやら、蔵人少将さまのお父君、おとどさまのようですわ」
「泰成さまの、お父さま?」
 しっかり頷く小牧は、さらに口を開く。
「中納言実成さまは、前太政大臣のお孫さま。今は従三位の中納言ではありますが、いずれは従二位の内大臣、いえ……正二位の右大臣になるべくお方さまです」
「は、はあ……」
 小牧の言葉がよくわからない。頭が痛くなった千珠は、こめかみを指でマッサージする。
 もっときちんと平安時代の勉強をしておけば良かった――なんて思っていると、御簾を巻き上げてひとりの男性が現れた。
「この局にいる千珠というのはどこにいる!」
 
 あっ、ここにいます!
 
 思わず手を上げて、声を出しそうなる千珠。
 だがそうするよりも早く、隣に座っていた小牧がすくっと立ち上がった。
「小牧?」
 彼女は一瞬どこか違う場所を見て軽く頷き、そしてこちらを振り返る。
「大丈夫ですわ。この小牧がついています」
 小さな声で囁き、すぐに几帳の向こう側へ回った。

2016/12/28
  

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