『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【14】

 泰成は、昨夜と同じように今夜も千珠の局へ訪ねてくると言った。
 だから小牧が局へ下がったあと、千珠は御帳台には行かず、昼御座に設えた畳に座っていた。
 躯を支えるために脇息に肘を置いてはいたが、身動きせず彼が来るのをじっと待つ。
 しかし、彼はその約束を反故にしたみたいだ。
 千珠は、油の量が少なくなった燈台の明かりをじっと眺めていた。
 静寂に包まれた暗い局を照らす、小さな炎。
 それがゆらゆら揺れるたび、千珠の心に理由のわからない不安が生まれる。
 そして、もうひとりの自分が囁く。
 
あの人には妻がいる。千珠ではなく妻との時間を大切にしたんじゃないの?≠ニ。
 
 千珠は諦めに似た長い吐息をつき、上体を折って脇息に突っ伏した。
「わたしの体内時計が正しければ、ちょうど深夜のアニメ番組が放送されているころ。ってことは、……こっちでいう丑三刻(うしみつどき=午前2時〜)ぐらい?」
 昨夜は、子の刻(午前0時〜)に来ていた泰成。でも、今夜は丑三刻になっても現れる気配はない。
 彼が来てくれないことに、千珠はひどく打ちのめされていた。
 
 会いたくて、会いたくて……たまらない!
 
 もうこの気持ちを間違えようがなかった。
 泰成と会ってまだ2日。過ごした時間も、彼を知る時間もないに等しい。
 それでも、彼を愛している。この世界で一生を過ごすのなら、彼とともに生きていきたいと強く思うほどに。
 泰成の優しさに心を打たれ、ここまで彼への想いを募らせてしまうなんて思ってもみなかった。
 恋い焦がれる気持ちに、胸が爆発しそうなほど高鳴る。
 
 早く泰成に会いたい、彼が夜に訪れる理由を知った今だからこそ、気持ちを伝え合い、彼と心を通わせたい。
 
 でも、泰成は約束を破った。
 ずっと耳をすませていても、千珠の元へ渡る足音さえ聞こえてこない。
 燈台の明かりがあるとは言っても、千珠の周囲だけが光に包まれている。御簾のあたりは暗闇に包まれているので、局全体を視界に捉えることはできない。
 闇に浮かぶ光の輪。その中心にいても、闇がどんどん千珠に迫り、そのまま泥炭の底なし沼に引きずり込まれそうな気持ちになる。
 だが、千珠はハッとして躯を起こした。
「あっ、そっか……」
 言葉を発した途端、千珠の躯をきつく締め上げていた緊張がふっと緩み、肩の力も抜けた。
「あれは物語だけど、あの女性たちもわたしと同じ気持ちだったんだ」
 光源氏に恋をした女性たちの気持ちが、なんとなく理解できた。
 想い人の足が遠のいたために胸を痛め、寂しい日々を過ごしていたが、それでも恋い慕う感情を捨て切れなかった人たちと。
 当然、この時代で言われる寵愛を泰成にいただいているわけではない。ただ頼っている人に約束を破られただけだ。
 でも背を向けられただけで、こんなにも胸を掻きむしりたいほどの痛みが湧き起こってくる。
 その痛みを堪えようとして、千珠は作った拳で胸を強く叩いた。
「光源氏……、なんて罪作りな人」
 彼は実在しない。物語に登場する人物だとわかっても、千珠はそう口にせずにはいられなかった。
「光源氏とは誰だ」
 いきなり局に響いたその声に、千珠は振り返った。
 昨夜と同様、小袖の上に袿(うちき)を羽織っただけの泰成が几帳の傍に立っている。
「泰成、さま……」
 御簾の音、渡殿を歩く音も聞こえなかった。
 いったいいつこの局に入っていたのだろう。
 千珠は呆然として、能面をつけたような無表情の泰成を見上げた。
「千珠、光源氏とは……いったいそなたの何だ? どこに邸を構える人だ!」
「はっ? ……わたしの?」
 すっとんきょうな声が、千珠の口から漏れた。
 この時代、まだ源氏物語は発表されていないの? ――と訊ねそうになり慌てて口を閉じ、千珠は呻き声を漏らして俯いた。
 源氏物語が何年に発表されたのかを訊いて、いったいどうするのだろう。
 そもそも学校で習った平安時代なんてほとんど覚えていない。だから、訊くだけ無駄なのに。
 そこまで思って、千珠は苦笑した。
 護寿神社と白桜邸の桜が同じだと感じたとはいえ、別に自分のいた時代の過去がこの世界だと実証されたわけではない。
 なのに千珠は、その前提でずっと考えている。
「何故笑う? ……私が気にならないとでも思っていたのか?」
 泰成は苦しそうに顔を歪め、手にした燭台を持ち上げた。顔を近づけ、吐息で火を吹き消す。
 火がひとつ消え、局が少し薄暗くなった。そのせいか、彼の顔にできた影が濃くなる。
 心にひそむ闇が、表に出てきたような気さえした。
 そう感じてしまうのは、今まで見たことのない泰成の態度と言葉のせいだろう。
 千珠は彼の見えない位置で、きつく握り拳を作った。
「泰成、さま……、わたしは――」
「私の対屋の局に千珠を置いているのは、他の男を想わせるためではない! そなたには……私を、私だけを頼ってほしいと!」
 几帳の傍にいた泰成が声を荒げると、千珠の元へ走り出した。
「はっ? ……あのっ、ちょっ……泰成さま!」
 普段の落ち着き払った泰成らしくない態度に、千珠は慌てる。
 でも、彼は気持ちを抑えるどころか、ドンドンッと足音を立てて近寄ってきた。
「えっ!」
 泰成は千珠が声を出しても聞く耳を持たず、目を三角にさせて千珠を凝視している。
 何を言っても無理だと悟ったとき、泰成は既に千珠のいる場所まであと1メートルと迫った。
 泰成の手が千珠に伸びてくる。
 殴られる!? ――そう思った瞬間、彼が千珠の表着(うわぎ)を思い切り踏んづけた。

「うわわあっ!」
「キャァ!」

 足を取られた彼が、急にバランスを崩した。
 泰成の躯は前のめりになった。スローモーションみたいに、彼の躯がどんどん近づく。

 ぶ、ぶつかる! 早く避けなければ!

2014/07/30
  

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