『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【6】

 千珠は荒れる心の暴走を止めようと、泰成の直衣をギュッと握り締めた。
 それでも心は庭にある桜へ飛んでいく。
「これ、上げて」
「な、に?」
 耳の傍で、泰成が激しく息を呑む。
「小牧、この……御簾を上げて。わたし、はっきりと桜の全体を見たいの」
「千珠さま?」
「……少しだけ、上げて差し上げなさい」
 千珠の腹部に回している泰成の手に力が入る。
 どうしてここで力が入るのか不思議に思ったが、千珠は小牧が御簾を巻き上げるのをじっと待った。
 徐々に射し込んでくる陽の光に目が眩んだが、それでも目を背けようとはしなかった。
 視界に広がる見事な庭園、中央に鎮座する桜の大樹。
 その瞬間、どうして千珠がこの白桜邸のあの桜の根元で倒れていたのかわかった。
「ああ、やっぱり……そうだったのね」
 一縷の望みを無残に砕かれて、千珠は泰成の胸にぐったりともたれかかった。
 白桜邸の桜は、護寿神社の神木と同じだったからだ。
 そうは言っても、全く同じというわけではない。
 目に映っている桜の樹木は綺麗の一言に尽きるが、現代で見た桜の幹はとても太くて古く荘厳だった。
 でも、それらが同じだと言えるのには理由がある。
 大樹の枝が両手を広げるようにして咲き誇っているその姿は、まさしく同じ。
 つまり、千珠は桜≠通じて、過去に呼び寄せられたことになる。
 
 それ以外の理由は考えられない!
 
 でも、どうして千珠が選ばれてしまったのだろう。
 神楽を舞うために護寿神社に来て、偶然あの神木の桜を見ただけなのに。
「どうしてわたしが、過去へ?」
 千珠が何かをした? それで罰を与えられたのだろうか。
「小牧、御簾を下ろしなさい」
 泰成の言葉でそれが下げられ、再び陽の光が少し遮断された。
「納得したか?」
 そんなものはしたくない。でも、これは従順に受け止めるしかない。ここで騒いだとしても、現代に戻れるわけではないのだから。
「東の対宮へ戻り、そこで改めて話を聞こう。ここでは、女房の目と耳が多すぎる」
 再び千珠を軽々とその腕に抱き上げると、泰成は局を出て長いすのこ縁を歩き始めた。
 遠巻きに泰成と千珠を見つめる視線が、まるで鋭く尖った矢のように降り注いでくる。
 少し怖くなった千珠は、さらに泰成の肩に顔を埋めた。
 そんな千珠に、泰成が優しい笑みを浮かべていた。
 
 
 東の対宮へ戻るなり、千珠は先ほどまで寝かされていた畳の上に下ろされた。
 今になって、鮮やかな着物布をへりに使った畳の上に寝床が作られていると気付く。
 どうせなら、この局全部に敷き詰めれば和室になるのに――そんな風に思っていると、泰成が千珠と距離を取る。
 人の温もりと、不快ではない泰成の香りを失い、千珠は急に心細くなった。
 思わずすがるように面を上げ、そこで初めて泰成の顔をよく見つめた。
 切れ長の目、整った鼻筋、その下にある柔らかそうな唇。全てのパーツに色香さえ感じる。
 それだけではない。160センチの千珠を軽々と抱き上げられることで、筋肉もほどよくついていると考えられる。
 男としての魅力を兼ね備えているだけでなく、相手を労わる心優しさも持つ泰成。
 彼を見れば見るほど千珠の胸が高鳴り、躯の芯が疼いて熱くなってくる。
 
 これって、いいことだろうか? それとも……
 
「では千珠、話してもらおうか」
 泰成の言葉で、千珠は急に現実に引き戻された。
 どこまで話せばいいのだろう。突拍子もない話に、泰成は冷笑を浮かべるかもしれない。
 それでもまず、知ってもらうところから始めなければ。そうしないと、その次へは絶対に進めない。
 千珠は覚悟を決めるとゆっくり息を吸い込み、泰成、そして小牧に目を向けた。
「原因は、たぶん……あの桜だと」
「桜?」
 不思議そうに訊き返す泰成に、千珠は神妙に頷く。
「わたしの住む世界とここの世界は時代が違うのに、同じ桜があるの。わたしの世界にある桜に導かれて気を失い、気付いた時はここに寝ていた」
「千珠さまは、やっぱり桜の精だったんだわ!」
 怖がるどころか目を輝かせ、崇めるように千珠を見つめる小牧。
「違うわ! わたしは桜の精なんかじゃない」
 その考え違いを直そうと必死で告げるが、小牧は千珠の言葉を聞こうとはしない。それどころか両手を合わせ、うっとりと自分の考えに浸っている。
「もう、違うのに……」
 やるせない気持ちで頭を振る前で、泰成は手に持った扇を開けたり閉じたりしながら、考え込むように口をつぐんでいる。
 局に響くのは、リズミカルな扇の音だけ。
 その音が止まったら、いったいどうなるのだろう。
 泰成の一挙一動をじっと窺っていると、彼の手の動きがぴたりと止まる。
 ゆっくり面を上げた泰成は、千珠の目をまっすぐ見返した。
「桜を通じでこの世界へ来たという話。どう考えても信じられない。だが、千珠が今ここにいる理由を紐解こうとすれば、人知の及ばぬところに話が進むだろう。そして気付かされる。これは神の領域の話で、いくら我々が思い悩んでも固く結ばれた紐は解けないんだと」
 穢れのない澄んだ彼の瞳に、千珠の心臓が一際高く胸を打つ。
 千珠の言う話は信じられないとはっきり言いながらも、神秘的な力のせいで千珠がここにいるんだと理解しようとしてくれている。
 千珠は、それがとても嬉しくてたまらなかった。
「桜の精……か。小牧の言い分もわかる。初めて千珠を目にした時は物の怪かと思ったが、温もりのある千珠がそうであるはずがない」
 目に見えるものだけを信じる――そんな強い気持ちが、泰成の熱い眼差しを見ているだけで伝わってくる。
 これほどまで、千珠という人物を見てくれた人は今までひとりもいない。
 どうしてそこまで千珠を信じようとしてくれるのだろう。
「千珠さま? その……ずっと気になっていたのですが――」
 泰成に見惚れていた千珠は、小牧の声にハッと我に返る。
「な、何!?」
 千珠の慌てぶりにも気付かず、小牧は考えるように小首を傾げていた。

2014/05/02
  

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