『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【5】

「今、小牧が話したのが全てだ。次は千珠の番だ。どうやって、白桜邸の……主殿の奥深くにある庭園へ侵入できたんだ?」
 まるで、何か目的があって泥棒に入ったと言わんばかりだ。
 でも、泰成から見たらそうなのだろう。千珠は不審人物、警察に届けられても仕方のない行動を取っている。
 あれ? こっちでは警察ではなくなんて呼ぶの? 検非違使(けびいし)だっけ? ――なんてことが頭に浮かび、千珠は空笑いを漏らす。
「そんなの、今は関係ないのに……」
「何が関係ないんだ?」
 思わず口に出していたと気付き、千珠は力なく頭を振った。
「ううん、こっちの話。それより、わたし……その桜を見てみたい。わたしが倒れていたっていう場所へ連れていってくれませんか?」
 今まで親切に対応してくれている泰成。だから、千珠の頼みをきいてくれると思っていた。
 でも彼は表情を強張らせ、拒絶の意思を示した。
「今は申三刻(午後4時ごろ)。主殿へ行けば、そこら中に女房が行き来しているはず。そんなところに、千珠を連れてはいけない」
「だけど、その桜を見たいの。そうでなければ、わたしのことは何も話せない!」
 そう強く言っても泰成は口を閉ざし、小牧は表情を歪めていた。
「もういい! それなら、わたしがひとりでその場所へ行ってくるから!」
 勢いよく啖呵を切ったところまでは良かったが、躯の節々に痛みが走るのをすっかり頭から抜け落ちていた。
 膝立ちをしようとして、無様な姿で前のめりにこけてしまう。
「千珠!」
 すかさず泰成が千珠の腕に触れて助けてくれる。
 至近距離で頼むなら今しかない。
「お願い! 確認させて! ……わたしは、わたしの考えが正しいのかどうか確認したいだけなの!」
 感情の赴くまま、声を張り上げた。
 千珠は知りたかった。
 倒れていた場所に桜があったと小牧が言った時から、その桜をこの目で見たかった。
 そもそも、現代での最後の記憶は、神木として祭られていたあの桜の大樹。
 なんらかの共通点があるとしか考えられない。
 それに、小牧が言った一陣の風≠燻vい当たる節がある。
 だからこそこの目で桜を見て、確認してみたかった。
「小牧……、千珠の小袖の上に袿(うちき)を」
「蔵人少将さま? それでは千珠さまをお連れになるのですか!?」
 わたしを連れていってくれるの? ――期待を込めて、千珠は泰成を仰ぎ見る。
「どうしてそこまでして、白桜邸の桜を気にするのかはわからない。だが、千珠が見たいと言うのなら、見せてやろうではないか」
「わかりましたわ」
 小牧は立ち上がり、用意していたと思われる袿を手に持って千珠に近づく。
「小牧の信用できる女房に、桜の見える局を用意するよう伝えよ」
「かしこまりました」
 地に文様を美しく織った綾織りの袿を千珠にかけると、小牧はさっと身を翻してすのこ縁へ足を向けた。
 彼女が「小菊」と呼びかけて何かを話すその後ろ姿を見ていたら、いきなり泰成が千珠を横抱きに抱き上げた。
「あっ!」
 咄嗟に彼の首に両腕を回す。筋肉に痛みが走って、思わず彼の鎖骨に顔を埋めた。
「少し、我慢するんだ」
 続けて「小牧、ついて来なさい」と言った泰成は、千珠を抱いて几帳を横切った。小牧が御簾を上げるのを待って、廂(ひさし=廊下を幅広くしたような細長いスペース)へ、さらに孫廂(まごびさし=廂の外回りにある廊下)へ出る。
 すかさず小牧が妻戸(つまど=両開きの板扉)を開くが、そこから出る前に、泰成が少し千珠を抱く腕に力を入れた。
「私がいいと言うまで面を上げないでほしい。いいね?」
 千珠は、緊張したような泰成の声音に静かに頷いた。
「よし」
 泰成は千珠を抱いたまま、すのこ縁(=孫廂の外回りにある縁側風廊下)を歩き、透渡殿を通って主殿へ入った。
 東の対屋と同じように長いすのこ縁を進み始めた途端、人の息遣い、衣擦れの音が耳に届く。
 面を上げるなと言われたが、急に周囲の状況を確かめたくて、千珠はこっそり目を走らせた。
 その光景に、思わずハッと息を呑む。
 開けられた格子の向こうに見える見事な寝殿造り、広大な敷地、そして先が見えない塀。
 豪華なそれらを目の当たりにして、千珠の口が自然とポカンと開く。
 しかも、目に入るのはそれだけではない。蝶のようにひらひらと舞う女性の表着が目の端に入る。
 そんな彼女たちの囁き声だろうか。「蔵人少将さまよ」「少将泰成さまだわ!」という興奮した女性の声が、千珠の耳にまで届く。
 当の泰成は特別気にする様子もなく、しっかりと千珠を抱いて前へ進む。
 男を感じさせる力、堂々たる態度に胸がときめく。こんな想いを抱いたのは生まれて初めてだ。
 千珠はさらに身を寄せ、泰成の肩に顔を埋める。現代の香水とは違って、なんとも言えない深い香りが彼からする。
 
 香木なのだろうか? そういえばこの時代、香を焚いて着物に染み込ませるとかなんとか……
 
 昔も今も、香りをまとって楽しんでいる。
 使う用途は違うかもしれないが、香りを楽しむことに変わりはない。
 香りが緊張を和らげてくれたのか、千珠の心臓は静かにトクントクンと胸を打つ。
 ふっと口元を綻ばし、さらに彼の香りを楽しもうと胸いっぱいに吸い込んだ。
 その時だった。
 かすかにリン、リリン……≠ニ鳴る鈴の音がした。耳の奥で反響する聞き覚えのある音に、千珠の躯が強張る。
 
 もしかして、桜に近寄った際に突如聞こえたあの……鈴の音!?
 
 泰成にも聞こえているのかと彼を盗み見るが、特に気にする様子もない。
 この音は、千珠にしか聞こえていないのだろうか。
「こちらの局をご用意いたしました」
 小牧の声に続き、御簾を巻き上げる音がした。
 泰成は彼は千珠を抱いたまま局へ入り、御簾越しに腰を下ろす。
 だが、彼は千珠を離そうとはせず、しっかり抱く。
 この意味はいったいなんだろう――ふとそんな風に思った瞬間、また鈴の音が聞こえてきた。
 千珠はぶんぶん飛び回るハエを追い払うように頭を振り、鈴の音を遠ざけようとする。
 でも、耳障りな鈴の音を振り払えない。
「あれが桜だ」
 とうとう千珠は諦めて、泰成が指す方向へ視線を向けた。
 瞬間、心臓がドキンと激しく高鳴る。
 御簾越しのため、薄らとしか桜が見えない。
 でも何かと呼応して、千珠の心を激しく揺さぶってきた。

2014/04/24
  

Template by Starlit