『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【1】

 3月下旬の京都、烏丸通り沿いにある護寿神社。
 今年は春の訪れが遅いせいか、桜の開花宣言が発表されても、この辺りの桜はまだどこも3分咲きか5分咲きがほとんどだった。
「桜、か……」
 桜が満開になる4月初旬。新入生が入ってきて、4回生は今まで以上に就職活動に励むことになる。
 未来の不安と肌を刺す冷気が相まって、21歳の桜川千珠(さくらがわ せんじゅ)は躯を震わせた。
 友達たちは早く内定がほしいと、積極的に就職活動をしている。千珠も早くどうするか決めなければならなかった。
 
 こっちで就職するか、田舎に戻って実家のお勤めを手伝うか。
 
 2回生になり、3回生になり、そして大学生活最後の年になっても、千珠はどっちつかずで右にも左にも動けないでいた。
 結果、今もなお就職活動もせずに、巫女のバイトに勤しんでいる。
「このままでいい……わけがないんだよね」
 神楽女の衣装に身を包んだ千珠は、玉石の敷き詰められた境内を進みながらボソッと呟いた。
 歩いているうちに出てきた匂い袋を袴の紐の間に押し込みつつ、さらに肩を落とす。
 自分の気持ちが定まらないせいで、バイトにも身が入らない。それではいけないとわかっているのに、気持ちが向上しない。
 千珠は何度もため息をついては俯き、動く玉石や赤い袴を見るともなしに眺めていた。
 その時、何かに惹かれるようにふと面を上げた。
 目の前には、千珠が神楽を舞う社殿があり、神前式を挙げる新郎と新婦の名前の書かれたボードが視界に入る。
「藤原家と出水家、ね……」
 護寿神社の周囲の地名にもなっている名字。
 
 偶然だとは思うけど、凄いな……
 
 千珠はその場に立ち止まり、じっと社殿を眺めた。
 今日は、幸せな式を挙げるカップルがいる。
 幸福を願う巫女も祝う気持ちを持って臨まなければならないのに、千珠の気はまだ晴れない。
 傍に誰もいないのをいいことに、千珠はまたため息を零した。
 運命の人と出会い、縁を結び、ともに手と手を携えて未来に向かって歩こうと出発地点に立つ新郎と新婦。
 きっと、幸せの絶頂期に立っているだろう。
 見ているだけで千珠も幸せいっぱいの陽の気に包み込まれると思うが、今はもっと実感のできる幸せを得たかった。
 でもまずは、これからどうしたいのかそれを決めなければ。
 実家の長野へ帰るのが嫌なわけではない。お勤めを手伝うのも、自分の運命だと思う。
 離れがたく思う恋人は今はいないし、京都を離れたくないと切羽詰まる思いさえ持ち合わせていない。
 まるで、誰かに実家へ戻れと背を押しているようだ。
 たぶん、それはいいことなのだろう。
 でもひとり暮らしに慣れた今、実家へ戻り、何から何まで干渉されると思ったら、気が重たくて仕方がなかった。
 大学生活を送られるのは両親のお蔭だとわかっていても、やっぱりまだ気持ちを決めきれない。
「ああ、もう!」
 たまらず千珠が地団駄を踏むと、チェリーブラッサム=コート≠ェふわっと漂い、鼻腔をくすぐった。
 春の陽射しのように柔らかく、心を和ます優しい香り。
 強張っていた千珠の口元が、自然と綻ぶ。
 この香水を百貨店の売り場で見つけた時、すぐに香りの虜となった。ほのかに漂う芳香は嫌みもなく、今では匂い袋に染み込ませるほど愛用している。
 千珠は袴の紐の間に押し込んだ匂い袋に触れ、そっと瞼を閉じた。
 
 悩んでいても仕方ない。なるようにしかならないのだから、今はとにかく目の前の仕事に目を向けなければ。
 
「よし、頑張るぞ!」
 うーんと両手を天に突き上げて大きく伸びをし、神域の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込む。
 千珠は気持ちを新たにして、神楽のリハーサルが行われる本殿を目指して歩き始めた。
 ザッ、ザッ……と玉石のぶつかる心地良い響きに聞き入っていたその時。
 一陣の春風が社殿と社殿の間を吹き抜けて、千珠の袴をなぶった。
 真綿で包み込むようなまとわりつき方に、足が自然とピタッと止まる。
「い、今のはいったい?」
 誰かに、そっと抱きしめられた感覚に陥ったからだ。
 そんな風に感じるなんて絶対にあり得ない。
 でも、何故か妙に心がざわざわして、苦しくて、理由のわからない感情が千珠の中で渦巻き始める。
 
初桜、宿世の契りに――
 
「えっ?」
 突然風に乗って聞こえてきた囁き声。
 千珠は生唾をゴクリと飲み込み、自然と我が身を強く抱きしめた。躯の芯に震える。寒いのもあるが、何か妙な感覚が千珠を襲う。
 棒立ちになってじっと立ち尽くしていると、千珠の目に何かが映った。
 風に舞う桜の花びらが一枚、雪のようにひらひらと舞って地面へ落ちていく。
 
 いったいどこから飛んできたのだろう?
 
 強張っていた躯の力を抜き、キョロキョロと周囲を見回す。
 すると、薄いピンク色に染まる桜の大樹が千珠の目に入った。
「えっ? ど、どうして……あんなに咲き誇っているの!?」
 護寿神社の周囲にある桜は、まだ3分咲き。陽の良くあたる場所でも5分先で、ここまで綺麗に咲き誇っていはいない。
 千珠はその光景が不思議でならなかった。このまま無視して本殿へ向かっても良かったのに、何故か意識がその桜の大樹へ向いてしまう。
 リハーサルまで時間がない。
 それはわかっているのに、千珠はその大樹に導かれてまっすぐ歩を進めた。
 
 一歩……、また一歩。
 
 徐々に近づくにつれて、思っていたよりも大きくて立派な桜だとわかった。
 護寿神社で神楽女として舞うようになって数日しか経っていないが、どうしてこの大樹の桜に気付かなかったのだろう。
 千珠は不思議な面持ちで、大樹を見つめた。
 樹木を囲む赤い柵、幹に巻かれた白い神垂(しで=特殊な断ち方をして折った紙)。
 太くて立派な樹幹を見ただけで、長年この土地で花を咲かせていたと容易に想像ができる。
「だから神木として祭られてるのね」
 以前、実家の父に聞いたことがある。その昔一足早く咲く初桜があり、その桜の咲き具合で一帯にある桜の開花時期がわかったらしい。
 残念ながら初桜は千年以上前に移植され、その行方は社に残る文献を見てもわからないという話だった。
 この大樹も、そう呼ばれている初桜なのかもしれない。それで神木として、護寿神社に祭られているのだろう。
 どうしてなのかわからないが、この神木を見れば見るほど妙に惹きつけられる。
 千珠は魅入られたように、桜の大樹を見上げた。
 この桜の傍にいるだけで、さらに空気が透きとおっていく気がする。
 幹の枝が両手を広げるみたいに伸びているせいで、守ってもらえていると感じるのだろうか。
 千珠は不思議な力に導かれて、見事に咲き誇っている桜へさらに近寄った。
 そして、立て札に書かれた桜の説明に目を向ける。
「……千年、桜?」
 太字で書かれた千年桜≠ニ口にした瞬間だった。
 いきなり耳をつんざく甲高い音に襲われる。
 千珠はたまらず眉をひそめ、両耳を手で押さえた。
 不快な音から逃れようとするが、音は小さくなるどころかだんだんと大きくなってきた。

「な、何!? なんなのよ、これ!」

2014/01/14
  

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