『それぞれの涙』【1】

side:菜乃
 
 健介との最後のデートを終えてから、菜乃は抜け殻のように毎日を過ごしていた。
 瞼を閉じれば、自然と健介の微笑みや笑い声……欲望で黒く輝く瞳を思い出してしまう。全て、菜乃だけに向けられていた熱い視線を。
 だけど、菜乃はしてはいけない事をしてしまった。健介と元カノの間に割り込んでしまった。
 だから、身を退くのも菜乃からしなければならない。そう、思った。納得した。当然だと思った。
 ……それで全てが終わった筈だった。
(だけど、わたしの心の中から健介が消えようとしない)。
 こんなに健介との事を忘れようと思っているのに、どんどん菜乃の中で健介の存在が大きくなっていく。
 触れて欲しい、微笑んで欲しい、菜乃を愛おしく見つめて欲しい……。そんな自分勝手な想いが溢れ出そうになる。
 そうなると、胸が苦しくなり、息がしにくくなり……鼻の奥がツンとなって、涙が零れそうになるのだ。
(健介……。わたしの何がダメだったの? わたしの何が……健介を遠ざける結果になったの? わからない、わからないよ!)
 菜乃は、クッションに顔を押しつけて微かに震えていた。
 
 どれぐらい時間が経っただろう? 時間の感覚が全くわからなくなった菜乃の頭に、誰かが触れた。
 菜乃はビクッと震えながら、視線を上げた。そこには、志月がいた。
「……いつまで、閉じこもってるつもりだ?」
 志月は目を細めながら、心配そうに見つめてくる。
「別に閉じこもってなんか、」
「いるだろ」
 志月がため息をつくと、菜乃の隣に腰を下ろした。
「……男は、青年だけじゃない」
 菜乃は、抱きしめたままのクッションへ視線を落した。
(わかってる。わたしだって、何度もそう言い聞かせてきた。二股をかけるような男なんて、忘れろって)
 でも……そう簡単にはいかない。健介は、わたしの幼なじみだから、初めての男(ひと)だから、わたしを優しく包んでくれた男(ひと)だから……だからこそ、簡単にわたしの中から消えない。
「お前を二股にかけるような男とは、別れて正解だ」
 わたしだって……2番手なんてイヤ。
 好きな人には、わたしを一番に想って欲しい。
 だけど……。
「わかりきったような事を言わないで。わたしの気持ちなんかわからないくせに」
 菜乃は、か細い声で反撃した。
 この時、菜乃は志月の表情が変化した事に全く気付かなかった。
「……お前よりダテに長生きしてるんじゃないんだぞ? 経験にしろ……想いにしろ、俺はお前よりいろんな事を学んできたさ」
「だからって、わたしの気持ちがわかるワケじゃない! この気持ちは……わたしでさえもてあましてるのに、そんなわたしの気持ちを、志月にわかるワケないよ」
 菜乃は、再び顔をクッションに埋めた。
(そうだよ。志月が他の女性にしてきた事を、わたしもされたんだよ?)
 それなのに、どうしてわかるなんて言えるの? わかるのなら、どうして今まで彼女たちをフッたりしてきたの? 酷い扱いをしてきたの?
 菜乃は誰かを求めるように、癒してもらう腕を求めるようにギュッと腕に力を入れた。
 ギシィとソファが揺れると同時に、志月の怒りを含んだ声が響いてきた。
「……お前に、俺の何がわかる? 俺の本音すら知らないお前に、そんな事を言われる筋合いはない!」
 怒ってる志月に対して、決して口答えしてはいけないとわかっていた筈だった。
 しかし、菜乃はいろんな事で頭がパニックになっていた為、つい抵抗するように口を滑らせてしまった。
「知らないワケないじゃない。わたしが小学生の頃からの付き合いなんだよ? 志月の事はよくわかってる」
 
 ―――ガシャンッ!
 
 大きな音とガラスの花瓶が倒れる音で、菜乃はびっくりして面を上げた。志月は怖い形相をしながら、ローテーブルに足を置いている。
 その足の先にある中央にあった小さな花瓶は見事に倒れ、小さな水たまりを作っていた。
 菜乃は、驚愕に満ちた目を志月に向けた。志月が、怒りに駆られてテーブルを蹴ったのだ。
 こんな志月、今まで一度も見た事がない。怒りに駆られても……こうして物にあたる事なんてなかったのに。
 ……そう、菜乃の前では決してこんな態度を取った事はなかった。
 菜乃は身を起こすと、志月の腕にそっと触れた。
「……志、月?」
「触るな」
 志月は歯を食いしばりながら言うと、菜乃の手をサッと払いのけた。
「な、何で?」
「だから言ったんだ、お前は俺の事などまるっきりわかってないってな」
 そう言われると、菜乃は口を噤んだ。確かに、こんな態度を取る志月を知らなかったからだ。
「そう、だね。志月の全てを知ってる……みたいな事を言ってごめんなさい」
 空中で止まっていた手を、菜乃は再びクッションに置いた。
「……わたしが知ってる志月は、この家にいる時の志月だもの。学校や会社での志月を知ってたワケじゃないものね」
 ……健介に対してもそう言える。菜乃と一緒にいる時の健介ならよくわかっていた。
 でも、学校での健介は? 友達と遊ぶ時は?
 当然、健介の全てを知ってるとは言えないだろう。それは、逆もあり得る。
(だから? 健介の前で見せていなかった……わたしの何かに我慢ならなくなっちゃったの?)
「……お前、これからどうするんだ?」
 これから? ……いつもどおり単位を取得する為に、大学に通って……毎日を過ごすしかない。
 菜乃は肩を竦めた。
「そうだね、健介より……いい男でも探すかな」
 そう言いながらも、菜乃の目は生気を失ったように曇った。
 ……健介以外の男なんて、目に入らないのに。
(わたし……本当に健介だけを求めていたんだ。彼だけを、こんなにも欲していたんだ。それなのに、わたしの側には……もう健介がいない!)
「なら……俺にしろよ」
 その言葉を呑み込むのに、数秒かかった。
 だが、菜乃はそれが志月の優しさだと思った。
「……本当、志月みたいな彼氏がいたら最高だよね。すぐ捨てられるのが目に見えてるけれど」
「相手がお前なら、俺は捨てたりしない」
「えっ?」
 菜乃は、志月の思いを読み取るように、注意深く見つめた。
 いつものからかうような声音ではなかったからだ。少し掠れて……それでいてしっかりと言い放つ力強い言葉。
 志月は、菜乃が抱きしめてるクッションを掴むと後ろに放り投げた。
「志月! 何するのよ……キャッ」
 いきなり志月に押し倒されてしまった。いきなりの展開に、菜乃は目を白黒させる。
 困惑しながらも志月の表情を探るが、彼の思惑が全くわからない。
 でも……志月の黒く光る瞳を見ている内に、彼がいつものようにふざけてるのはない、という事だけはわかる。
 何? これは、いったいどういう事なの!?
「俺なら、お前を哀しませるような事は、決してしない」
「も、もちろん……志月がわたしを哀しませるような事はしないって、わかってるよ。いつだって、志月は……わたしの事を一番に考えてくれて」
 と、そこまで言って菜乃は言葉を止めた。
 そう、志月はいつもいつも菜乃の事を一番に考えてくれた。
 小学生の頃、義父が仕事の関係で父親参観日に来れない事があった。あの時、日曜日だというのに、志月は菜乃の為に来てくれた。
 両親が旅行へ行った時も、志月がこの家に来てくれ何でもしてくれた。何かあれば、必ず菜乃の元へ飛んできてくれた。
 ……それって、もしかして?
 突然過ったその考えを否定するように、菜乃は心の中で頭を振った。
(違う! 志月は、わたしの事を女としてなんか見ていない。可愛い姪ぐらいにしか思ってくれてない)
 菜乃、変な勘ぐりはやめなさい! でも……。
 菜乃は、もう一度志月の瞳を見た。やはり、その眼差しには真剣さが伺える。
「……俺の女になればいい。そうすれば、泣かずにすむ」
 どういう意味で言ってるの? どうして、そんな意味深な言葉を使うの?
「志月……の女になれるワケないじゃない。わたしは、志月の姪なんだから」
「血は繋がってない」
 菜乃はビクッと躯を震わせた。まるで、その答えが前もって用意されていたかのように即答したからだ。
「菜乃……、幸せにしてやるから」
 そう言いながら、志月の顔が近づいてきた。菜乃は恐怖を覚え、咄嗟に顔を背ける。
 だが、露になった白い首筋に志月の唇が触れた。
 今までだって、頬にキスやハグはしてきた。でも、これは今までと全く違う!
 菜乃は、この妙な雰囲気を壊すかのように、声を張り上げた。
「今も、幸せだよ! 優しい両親に頼りになる志月が側にいてくれて、わたしはとっても幸せ。でも、これ以上志月に幸せにしてもらう事は何もない!」
「手に入れられない幸せを与える事も……出来る」
 それは、どういう意味の幸せ……なの?
 志月の大きな手が、菜乃の腰に触れた。その手で触れてもらうのが大好きだった。
 頭を撫でられたり髪をくしゃくしゃにされては怒ったりしたが、菜乃はその大きな手が好きだった。
 でも……こんなのは違う!
「志月……、ヤダ」
「……誰でもいいんだろ? 男を探すんだろ? なら、俺でもいいワケだ」
 違う、誰でもよくない。それに、その鞘当てに志月を……だなんて、本気で言ってるの?
 志月の手が、乳房の下まで伸びてきた。耳元に、志月の温かい息もかかる。
 ヤダ、ヤダ……こんなのはヤダッ!
「健介!!」
 菜乃は、瞼をギュッと閉じるのと同時に大声でそう叫んでいた。
 
 混乱した感情が少し落ち着くと、ゆっくり瞼を押し上げた。
 志月は平然とソファに凭れて、菜乃一人だけソファに寝転がっていた。慌てて身を起こすと、志月が口を開く。
「……お前はまだ青年を忘れていない、というのがわかったか?」
「えっ?」
 志月は、菜乃がきちんと座ったのがわかるとゆっくり面を向けた。
「まだ青年を想い続けてるんだ。あんな状況で叫んだのは、青年の名だった」
 そう言われて、志月を拒絶する時に叫んだ言葉を思い出した。
(わたし、咄嗟に助けを求めていた……。健介って)
 菜乃の目に、涙が溢れてくる。
(志月の言うとおりだ。わたし、健介の事を忘れてなんかいない)
 忘れるどころか、前より一層健介を愛してる! 裏切られたというのに、健介だけを……。
 そんな菜乃の表情を、志月はジッと見つめていた。
「……お前にとっての最高の男は……あの青年なんだ。それを、元カノに渡していいのか? 欲しいものは、何をしてでも手に入れるものだ。それが……例え誰かを傷つけるような事になっても」
 誰かを傷つけても、健介と話し合ってもいいの? もう見限られてるのに、会いに行ってもいいの?
 涙が頬を伝うが、菜乃は必死に志月を見上げていた。
 そんな菜乃を見ながらも、志月はゆっくり言葉を発する。
「お前が本当に青年を望むのなら、戦わなければ。何もせずに諦めたりしたら……後で後悔する事になる。それはイヤだろ?」
 菜乃は、瞼を閉じながら頷いた。その拍子に、大粒の涙がポロポロと落ちる。
「善は急げ、だ。……行って来い菜乃。そして……青年を取り戻して来い! それが、お前の今するべき事だ」
 菜乃は、ソファからヨタヨタとしながら立ち上がった。
「行って来る。どうして健介が……元カノとまた付き合い出したのか、わたしのどこがいけなかったのか……。二人にはもう未来はないのか……きちんと訊いてくる」
「あぁ、そうしてこい」
 志月が、安心したかのように微笑んだ。その微笑みが、菜乃の先程の疑惑をすっきり洗い流してくれた。
(志月は、わたしの気持ちを外に吐き出させる為に、あんな行動を取ったんだ。全て……わたしの為に)
「ありがとう、ありがとう志月」
 感謝を込めて微笑むと、菜乃はそのまま玄関に向かって走り出した。
 想いは、健介に向かって……

2004/07/05
  

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