『記憶はパズルのように』

side:健介
 
 特に何かをするというのでもなく、健介はただ息をするように……無気力に大学生活を送っていた。
 あの日から一週間も経つというのに、現在もその状態から抜けきれず、呆然と自室で座り込む事しか出来なかった。
 健介の脳裏には、微笑みかける菜乃、縋り付く菜乃、拒否を示した菜乃、振り返る事なく背を向けて去った菜乃……いろんな姿の菜乃ばかりが過る。
(俺は……まだ、菜乃の事が忘れられない)
 未来の躯の事や、これから先の事について考えなければいけないというのに、健介の心を占めるのは菜乃の事ばかり。
 どうしてこんな風になってしまったんだ? どうやって……菜乃は未来の事を知った? それに、何故未来とラブホに入った事を知っていた?
 何故!?
 そんな事よりも重大なのは……菜乃に別れを告げられたという、決定的な事実のみ。菜乃を追う事なく行かせてしまった……という健介の失態!
(どうして俺は菜乃の腕を捕って引き止めなかった? どうして、きちんと理由を菜乃に説明しなかった?)
 遊園地で一緒に過ごした、楽しかった出来事が脳裏に蘇る。
 嬉しそうに、それでいて何かに追われるように必死に微笑んでいた菜乃。
(……初めから、俺と別れるつもりで過ごしていたんだな? なら、どうして俺にキスさせた? 俺のキスに応えた?)
 健介は、ガクッと頭を垂れた。
 自分の事は棚に上げて……菜乃の事ばかり責めてる。悪いのは健介だというのに。
 恋人に相談すべき事実を故意に隠してしまったのが、そもそもの原因といえる。
 だが、健介は……少しでもいいから信用して欲しかった。菜乃しか見えていない健介が、昔の女とヨリを戻す筈がないと信じて欲しかった。
 その思いは届かず……菜乃は健介が裏切ったと思った。
(ちくしょう。俺の気持ちが、そんな安っぽいものだと思ったのか? 俺が二股をかけるような男だと、本気でそう思ったのか!?)
 そんな卑怯な男と付き合ってきたと……思ったのか? こんなに心の底から菜乃だけを愛しているのに。
 健介は、ズズッと滑りながらベッドの端に頭を乗せ、天井の一点を見つめた。
 菜乃……お前に会いたい。触れたい、キスしたい、愛し合いたい……ギュッと抱きしめたい!
 そう思うなら、早く菜乃を取り戻せ!≠ニ悲痛に叫ぶもう一人の自分がいたが、健介は動けなかった。
 理由を話したところで、どうなるものでもないとわかっていたからだ。
 なぜなら、未来のお腹には子供がいるから。健介の子が。
 あの時までは……、菜乃と再会するまでは健介は満足していた。
 羨望の眼差しを受ける未来を彼女に持つ事で、優越感があった。セックスも……満足してた。
 健介の欲望を受け止める未来。それに合わせて絡みつく四肢の柔らかさ……。
 健介は、それらを甘んじて受け止めていた。……菜乃と再会するまでは!
 菜乃と再会してから、男女間の関係はそれだけではないという事がはっきりわかった。周囲の意見など一切関係ない、ただ側に居てくれるだけで幸せだという事を。
 また、セックスも……ただのセックスではないという事を知った。
 欲望を吐き捨てるだけのものではなく、相手をより深く愛するという事。全てを守るように、慈しみながら全身全霊をもって愛おしむという事。
 全て、菜乃に教えられずして教えてもらった事だ。だからこそ、健介の心の奥に住む女性は菜乃以外あり得ない。
 菜乃以外の女性は考えられないのに、健介は愛する菜乃を切り捨てた。菜乃以外の女性との未来を考えなければいけない。
(……俺の無責任から生まれる、子供の事を考えて)
 あまりにも空虚なこの先の未来に、健介は生きる気力さえ萎えていた。
 愛おしく思える相手、想いを通じ合える相手がいたのに、自らの失態から……それを失ったから。
 健介は、タバコを取り出すと口に咥えた。火をつけると、ゆっくり煙を吐き出す。煙はふわふわと漂い、そしてゆっくり空気に混じって消えた。
(俺の問題も、こうやって消えればいいものを)
 ……あぁ、しっかりしろ健介! いつまで自暴自棄になってるつもりだ? こんな風に漠然と過ごしていても、何も解決しないんだぞ!
 やるべき事に目を向ける為、健介はテーブルの上にあったメモ帳を開けた。これからしなければいけない事を、箇条書きにする為に。
 
 1.未来の両親に殴られに行く。
 ……殴られるよな、やっぱり。未来はお嬢様だし、シングル・マザーになろうとしていると知ったら、彼女の両親は激昂するだろう。
 健介が未来と結婚するとなれば……まだ違った話になると思うが。
 健介は、大きくため息をついた。
 やっぱり未来と結婚するべきなのか? それが男の責任ってもの?
 だが、未来を愛してもいないのに、所帯を持つとなると未来を侮辱するような気がする。
 愛されてもいない、幸せでもない……生活。二人の間にあるのは子供だけ。そんな生活、未来が堪えられる筈ない。
(ふっ、何て身勝手な考えだよ。全て俺の感情、願望じゃないか)
 全くと言っていい程、未来の事を考えてない。
 そこで、初めて未来が健気にも自分を立て直し、一人で考える時間を欲しいと言った時の事を思い出した。
 未来は、健介を求めてるかもしれない。
 だが、健介の気持ちを聞いた上で、お腹の子の事も考えたんだ。既に、母親となって。
 その事実に、健介は頭を殴られたような感覚に陥った。あまりにも双方の考え方の違いに、呆然となるしかなかったのだ。
(……俺、偽善者と呼ばれても、未来を幸せにしなければいけないのか?)
 もちろん、健介は未来を愛する事は出来ないだろう。
 だが、それでもいいと未来が言うのなら、健介は責任を取るべきなのだろうか? 認知するだけでなく。
 健介の手が震えた。責任という言葉の重さに、押し潰されされそうになる。苦しい想いをグッと胸の奥に押しやると、手に力を込めた。
 そして、今まで考えていなかった言葉を書く。
 
 2.婚姻届
 もし、未来が本当に健介を望むのなら婚姻届に判を押そう。甘い考えだが、両家の両親の援助を受けながら、大学だけは卒業させてもらって職につく。
 それから、借りたお金を返していく。
 健介が大学を中退しても、いい職にはつけない。家族を養ってはいけないから。
 ここまで考えると、次しなければいけない事がどんどん浮かぶ。
 
 3.新居
 これは未来のマンションでいいかも知れない。新しいところを探す事はないし、あそこならエレベーターもある。
 
 4.母子手帳
 これがないと、な。………あれ?
 健介は、そこまで書いて……初めて重大な事を忘れていた事に気付いた。書きなぐるようにペンを走らせる。
 
 5.産婦人科!!
 行ってない。行ってないぞ! 確か……未来は、検査薬で試して陽性だと言った。
 それだけ。
 あれから何度も病院へ行こうと言っても、ずっと拒絶されてきた。
 健介は、短くなったタバコを灰皿で消すと、勢いよく立ち上がった。
 病院へ行かなければ! そうしなければ、妊娠が本当かどうかわからない。
 そうは思っても、健介は未来の言葉を信じていた。落ちくぼんだ目、その下にあるクマ、体調変化、嘔吐……、全て演技には見えない。
 早くきちんと診てもらわなければ!
 全てはっきりした時点で、次の事を考えればいい。とりあえず、未来の躯の事が先だ。
 健介は、時計を見た。十五時過ぎ。まだ、午後診がある。病院は未来と決めればいい。
 
 そう思うと、健介はTシャツの上から半袖のシャツを羽織った。
 勢いよく自室ドアを開けると廊下を走り、そのまま玄関から飛び出した。
 どうして、先の事ばかり考えてしまったんだ? どうして、病院へ行く事を記憶から消していたんだ?
(それは……俺が、菜乃の事ばかり考えていたから。俺が、愛する菜乃の事だけを……ずっと考えていたから)

2004/07/01
  

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