『心に降る雨』

 9月の天気は、まだまだ不安定だった。快晴かと思えば、もくもくと入道雲が青い空を隠して…どんどん澄み切った空を隠していく。
(まるで、今のわたしの気持ちを表わしているみたい)
 菜乃は、哀しそうに唇を歪めた。
 何故、健介たちの後ろを追い始めたのかわからない。決定的な瞬間を見たいから? それとも、二人はただの友達だと思いたいから?
 一定の距離を保ちながら二人の背中を眺めていて、わかった事がある。
 それは、彼女が健介を愛しているという事。縋るような視線は、紛れもなく愛情が含まれている。それに対して健介は、彼女を守るように見下ろして気を配ってるように見えた。
 菜乃は、その光景から目を背けたかった。
 だが、真実を見極めろという声が、ずっと頭の後ろの方から囁いてくる。
 これも、志月の受け売りかな。
 そんな事を思いながらも、菜乃は二人の姿を目で追った。端から見れば……ストーカーの一歩手前。菜乃は、十分理解していた。
 でも、これは……どうしても知っておきたいこと。
 二人が一瞬立ち止まり、視線を交わす。まるで、キスをするかのように顔を近づけて……
(イヤ、やめて! わたし以外の女性に、そんな事はしないで!)
 菜乃は思い切り顔を背けた。
 健介が他の女とキスするところなんか見たくない! 見たくないけど……。
 菜乃は恐る恐る視線を向けた。
 健介は慌てた素振りを見せながら、彼女の肩をしっかり抱きしめて路地裏へと足を向ける。
 菜乃は、すかさず後を追いその路地裏に入った瞬間……そこがラブホテル街になっているとわかった。
「っぁ!」
 息を呑みながら、菜乃はすぐに手で口を押さえた。健介とコンパで再会した……あの日と全く同じような光景が浮かぶ。
(健介の隣にいたのはわたしで……賭けをして……二人でホテルに入った)
 幸せな一時を過ごした瞬間を思い出したと同時に、健介は彼女とそのままラブホの中へと入って行ってしまった。
 健介に限って、そんな事をする筈がない。
 そう強く念じて祈っていたのに、とうとう現場を目撃してしまった。
 ガラガラと音を立てて崩れ落ちる想いが、重い石となって心を深く苛ます。震える手足は、まるでこんにゃくになったように力が入らない。
 電柱に手を伸ばして躯を支えるが、菜乃はそのまま脱力してしまい、縁石に尻をついてしまう。座り込むのと同時に、大きな雨がポツポツと降り注ぎ、コンクリートに水玉模様を作り出した。
 だが、菜乃はその場から一歩も動けなかった。今まで必死になって保ってきた感情が、一気に崩れ落ちてしまったからだ。
 
 
 どれぐらいそうしていただろう?
 菜乃が我に返った時は、既に服もびしょびしょで濡れネズミになっていた。勢いよく降り出した雨は、まだ止む事なく……コンクリートに大きな水たまりを作っていく。
 震える躯を支えながら携帯を取り出すと、菜乃は健介の番号へと繋いだ。
『菜乃? どうした?』
 第一声……その声は驚きに満ちてはいるが、心配しているようにも聞こえた。菜乃は思わず、携帯を握り締める。
「健介、今…一人?」
 声が震える。
 だが、菜乃は必死に感情を抑えて声を振り絞った。
 一瞬、健介の声が途切れて無音になる。
(こんな風に、試す事はしたくない。ひどい彼女だってわかってる! でも、わたしは……)
 健介! お願い、ちゃんと真実を言って。
『……一人だけど、いったいどうしたんだ?』
 崩れ落ちた想いは、さらに奥へと落ちていく。菜乃は、健介の気持ちがわからなくなってしまった。
 どうして元カノとヨリが戻ったと言わないの? どうして、きちんと別れ話をしてくれないの? どうして、中途半端なままにさせるの!
『菜乃? 今、外なのか?』
「……うん、外だよ。ははっ、どしゃぶりの雨に打たれちゃった。もう、びしょ……びしょ」
 何故か、涙は流れてこない。あまりにも深く傷ついたから? この雨が、菜乃の代わりに泣いてくれてるから?
『すぐどこかの軒先に入れ。風邪をひくぞ。今何処にいる? すぐには無理だが……1時間後には行くから』
「いい! 来ないで!」
 咄嗟に拒否の言葉が出た。
(すぐに来てくれないって事は、わたしよりも彼女を優先するって事でしょう? 1時間後? 何をした後の1時間後なの?)
『菜乃? ……お前変だぞ?』
「そう、かな?」
 嘲るようなその声に、健介の言葉も止まった。
 どうしたらいいんだろう? どうしたら……
「ごめん、切るね」
『菜乃!?』
 呼び止めるのも聞かずに、菜乃は携帯の電源まで切った。
 のろのろと立ち上がると、健介が入ったラブホに視線を上げる。
 あの部屋のどこかに……健介と彼女がいる。
 その現実から目を背けると、菜乃は歩き出した。まるで、健介から逃れるように。
 
 
 濡れたジーンズは、すらりと伸びた足に張りつき、薄いブラウスも躯に張りついている。レースのブラや、そこから盛り上がる乳房まで、はっきりと透けていた。
 通りを歩く男性の視線を感じるが、菜乃は無気力のまま駅へと向かう。男性から親しげに声をかけられても、茫然と前に足を進ませるだけ。
 それだけの事しか出来なかった。
 駅について、初めて周囲の視線に気付いた。性別に関係なく、老若男女までが菜乃を不審そうに見つめてくる。
 菜乃は、やっと自分の姿に顔を顰めた。
 何て姿なの! こんな格好じゃ、電車なんかに乗れない。
 クルッと身を翻すと、再び駅から出て雨の中をゆっくり歩き出した。
 濡れる心配はしなくていい。十分に濡れていたから……
 菜乃はしばらく歩き続けると、雨のせいで人気の少なくなった道路沿いの柵に腰かけた。
 雨の中、車が走り抜けるのをジッと見つめる。
(無気力って、こういう状態の事を言うんだね。雨に打たれていても、わたしは何もする気がないし、何も考える事が出来ない)
 菜乃は、自嘲するように笑った。
 こんなものなのかな。真実を突きつけられたのに、涙さえ出ないなんて。
 空を振り仰ぐと、顔に無数の雨が降り注ぎ、頬を濡らす。
 どうしよう、どうやって帰ろう? ……家、に?
 菜乃は、激しく頭を振った。
(イヤ! わたし、家になんか帰りたくない! 家に帰ったら、健介が来るかも知れないし、電話をかけてくるかも知れない)
 今はまだ……気持ちを落ち着けて話す事なんて出来ない。
 それなら、何処へ行く? 悠子のとこ? ……ダメ、迷惑かけられない。
 菜乃は、正面のビルにある大きな広告を見つけた。
(あぁ、わたしってやっぱり彼を頼りにしてるのね)
 菜乃は携帯を取り出すと、電源を入れた。
 瞬間、着信履歴と伝言の表示が表れた。全て、健介からだ。
 菜乃はそれを無視すると、縋るような思いでボタンを押す。
 
 ―――プチィ。
 
『今、仕事中!』
 誰にでも容赦ない志月の声に、菜乃の口元が少し綻ぶ。
「邪魔、した?」
『おぅ、邪魔邪魔』
 邪険に扱われているのに、その言葉に愛情を感じるのは何故だろう? 小さい頃からずっと志月を見てきたから?
『……菜乃? お前変だぞ?』
 うん、確かに変だ。自ら雨の中にいて柵に座ってるし、健介が菜乃に見切りをつけたとわかったのに、涙さえ出ないのだから。
 アスファルトに打ちつけられる雨を、ジッと見つめる。
『今どこにいる?』
 容赦のない強い一言。菜乃に有無を言わさない声音。菜乃は、静かに瞼を閉じた。
(兄のような志月……。でも血の繋がりはない。なのに、どうしてこんなにわたしを想ってくれるんだろう? わたしが志月のお兄さんの……たった一人の子供だから?)
『菜乃!』
 怒りを抑えたその声に、菜乃はボソッと呟いた。
「表参道」
『の、何処だ?』
 菜乃は周囲を見回す。
「神宮寄りかな?」
『……わかった。そこから動くなよ』
 そこですぐに通話は切れた。
 本当にわかったのかな?
 菜乃は、再び広告に目を向ける。
(うん、わかったのかも……。わたしが、志月の会社が手がけたポスターの前にいるって事が)
 
 
 それからどれくらいかかったのだろう?
 降り出した雨は、まだ止む気配はない。菜乃の躯は、雨に濡れてどんどん冷えてくる。
 まだ残暑というのに、どうしてこんなに寒いんだろう?
 鋭いブレーキ音の響きで我に返ると、菜乃は目の前に止まった赤のスポーツカーを見た。バタンッとドアが開き、志月が飛び出すと同時に、菜乃の濡れて惨めな姿を素早く見る。
「入れ」
 そう言われるが、躯が悴んで言う事をきかない。それに、ずぶ濡れとなった姿のまま、志月のスポーツカーに乗り込むには勇気がいる。
 動けない菜乃を見た志月は、自分が濡れるのもお構いなしに、菜乃の側へ近寄ると腰を抱いて柵から下ろした。
「ほらっ、早く乗らないと、罰金ものだ」
 菜乃の躯が微かに震える。
 それを感じ取ったのか、志月は力を込めると菜乃を助手席に押し込んだ。
 車をスタートさせるが、志月は何も言わずただハンドルを握っていた。
 菜乃は、躯を丸めて……志月の無言の攻撃に耐えながら瞼を閉じた。
 これから問われるであろう質問に、立ち向かえる力を……充電するかのように。

2004/05/30
  

Template by Starlit