『予想外の出来事』

side: 健介
 
『健介? どうしたの?』
健介は、菜乃の声を聞いて、思わず携帯をしっかり握り締めた。
「あの、さ、……今日のデートキャンセルしていいか?」
『えっ? 何かあったの?』
一瞬、喉元まで出かかったが…その言葉を無理やり飲み込んだ。
「うん、レポート提出日が明日だったって事忘れてたんだ」
これで、通じるだろうか? ごめん、ごめん菜乃!
『そっか、それなら仕方ないよね。うん、わかった。レポート頑張ってね』
「あぁ、ごめんな」
『いいよ。その代わり、埋め合わせはきちんとしてよね』
健介は、申し訳ない気持ちで約束をすると、菜乃との回線を切った。
 
健介は、思わず頭を抱え込んだ。
あぁ、どうして嘘ついたんだろう? どうして、はっきり元カノと会うと……伝えなかったんだろう? いけない事だとわかっているから?
健介は、その渦巻く感情を払拭するべく立ち上がると、すぐに部屋から出た。
……そう、未来のマンションへ向かう為に。
 
 
* * * * *
 
――― 今朝。
 
枕の横に置いた携帯が、突然鳴り出した。
健介は、眠りを邪魔されてイライラしたが、携帯を取った。
「もしもし……」
『健介? わたし、未来。朝早くにごめんね。でも、健介にちょっと……。ねっ、お願い、相談したい事が…』
その悲哀に満ちた声と、おどおどしているような感じがする未来の態度に、健介は一瞬で目が覚めた。
「……何かあったのか?」
本来なら、元カノに優しくする必要はない。だが、恋人同士から友達に戻った今、未来が何か悩みがあるのなら、聞いてあげたいという気持ちが大きかった。
なぜなら……ひどい裏切りをして未来を傷つけてしまったから。
『電話じゃ話せない。来てくれる? お願い、健介』
「わかった、今どこ? マンション?」
『うん…来てくれるの? 今すぐ?』
「あぁ、今すぐ」
『ありがとう、ありがとう健介! わたし待ってるね』
 
* * * * *
 
 
それから、すぐに着替えて家を出てきた。
暑さが健介を包み込むと、背中に汗が落ちた。
だが、それが汗なのか、冷や汗なのか……健介にはわからなかった。

未来の住むオートロックの賃貸マンションに向かいながら、今日のデートを断る為に菜乃へ電話したのが、ついさっきの事。
はぁ〜、何やってんだ俺。
菜乃に嘘をつく理由なんかないのに。
額にかいた汗を拭うと、ひんやりとする玄関に入った。
 
 
 
「ごめんね、突然呼び出して」
「いや」
通い慣れた一室に腰を落ち着ける。
何か妙な感じだ。以前…菜乃に会うまでは、この部屋で何度も未来を抱いた。だがその記憶が蘇っても、今ではそれが真実とは思えない。
まるで、薄い靄がかかったような、まるで夢のような気がする。
そう思うのだが、この1LDKのマンションには、至るところに健介の存在があり、決してそれは夢ではないと語っていた。
未だ捨てられていない俺専用のマグ、一緒に撮った写真、未来と選んだ心地よいクッション。
どうしてなんだ? どうして何も捨ててないんだ?
健介は、どんどん居心地が悪くなってくるのを感じながら、未来がテーブルにアイスコーヒーを置くのを目で追った。
「っで、何? 相談したい事って?」
早くここから立ち去りたかった。菜乃の元へ急いで行きたかった。この過去の部屋から逃げ出したかった。
だが、その気持ちを必死に心の奥底に閉じ込め、未来を見つめた。
 
心なしか青ざめた未来だったが、セミロングだった髪をボブショートに切った彼女は、一層大人っぽくなったように見えた。
儚く、守ってやりたいと思えるほど愛らしくもある。
ははっ、俺も随分変わったんだな。これも全て菜乃の影響か。今まで、未来に対して…こんな気持ちになった事はなかったのに。
自嘲気味に口角を下げた途端、未来はとうとう呼び出す原因となった事を暴露した……そう爆弾発言したのだ。
 
「健介……わたし、妊娠してるかもしれない。どうしよう!」
 
 
 
シーンと静まり返った部屋に、時計の秒針の音だけが響き渡る。
健介の背中に、再び汗が滴り落ちる。
突然の発言に、健介は頭を思い切り殴られたかのような衝撃を受けた。 心臓が激しく高鳴り、息さえするのが苦しい。
健介は瞼を閉じて、頭を垂れた。
その仕草を見た未来の目には、涙がたまっていく。
「それは…つまり……俺の?」
「うん。たぶん、7月の初めぐらいに……した時の」
健介は、思い切り頭を抱えた。
もう菜乃とは付き合えないと……はっきりしたからだ。
愛してるのに…俺は菜乃だけを愛してるのに!
 
「健介、ごめん」
健介は、ハッとなって顔を上げた。
そうだった。未来の方が、初めての経験で悩み苦しんでいるというのに、俺は自分の事ばかり考えて。
俺のせいだろ? 俺が避妊に失敗したからこういう結果になったんだろう?
「くそっ!」
あまりの不甲斐なさに、健介は自分自身に腹を立てた。
「怒らないでよ。わたしだって、どうしたらいいかわからないんだから」
未来は、涙をためて下を向く。
あぁ、違う。未来に怒ったんじゃない。
健介は、未来をもう一度よく見た。
そこで初めて、最初の印象に納得がいった。
異様に青ざめて、微かに目元の下にあるクマ。
それも妊娠の兆候の一つなのだろうか? ……そんな事より、今どうするべきか、これからどうするべきかを考えなければ。
「……病院には行ったのか?」
未来は、頭を振る。
「病院に行かないと、はっきりした事がわからないだろ? 未来の周期は不規則だったから……もしかしたら、妊娠してないかも」
「生理が遅れてるの。こんなに遅れたのは初めてだったから、検査薬を買って……陽性だった」
女性の躰について、あまりよくわからないが、それぐらいはわかってる。生理がいつもより遅れていると言う事は、つまり……。
「健介、わたし産みたい。健介の子供を産みたい」
その発言に、健介は一瞬で青ざめた。
「未来…」
「わかってる。健介がわたしを愛してないって。でも、中絶なんて考えられない」
「未来!」
その鋭い一声に、未来はピタッと口を閉じた。
健介はため息をついた。
「まだ大学2年なんだぞ? どうやって育てていくつもりなんだ?」
未来は、唇をギュッと噛み締める。
「それに、一人で育てようと思ってるのか?」
その言葉に、未来が肩を震わせてた。
「仕方ないよ、一人で育てるしかないじゃない。でも、この子は…わたしだけの子じゃないから、だから健介にも相談しようと思って」
下を向いたままの未来から、雫がポツポツと落ちている。
無責任なセックスから生まれたこの状況に、健介は項垂れた。
どうしたらいいんだ? どうすれば!
 
 
すすり泣く未来が落ち着くまで、健介はジッと耐えて自分の考えに没頭した。
これからどうすればいいか。これからどう責任を取るべきか。もちろん、中絶するのが一番だと思う。未来だって、苦労を背負い込む必要はない。だが、中絶にもリスクが伴うのはわかってる。中絶した事によって、一生子供が産めない躰になる可能性だってあるのだ。……もちろん、産む決意をしても、その後どういう結果になるかわからないが。
 
「健介?」
落ち着きを取り戻した未来が、顔を上げる。
その縋るような瞳に、健介は責任をとらなければいけないと思った。
だが、気持ちを偽る事は出来ない。それだけは絶対出来ない。男のエゴだと言われても仕方ないが、初めて気付いた恋だからこそ、そこだけは譲れなかった。
もちろん、菜乃との永遠は……崩れ去ろうとしているが、この心の中の想いだけは、どうしても捨て去る事は出来ない! それが、俺に出来るたった一つの愛だから。
「未来、その子供は俺の子供でもあるワケだろ。俺はその責任を取るつもりだ」
「健介!」
未来の顔が、幸せに満ちた表情へと様変わりする。
「ちょっと待って、未来。俺の話を最後まで聞いてくれ」
鋭い口調の健介の言葉に、未来の表情が一変した。
健介は、大きく息を吸い……気持ちを落ち着けると、口を開いた。
「確かに、子供を産むのなら俺にも責任がある。子供に対して責任を取る為に、俺は認知はするつもりだ」
「…認知?」
「あぁ。俺は、子供が出来たからという理由で、プロポーズは出来ない。それはわかって欲しい。偽りの生活を過ごす事は、もう二度としたくないんだ」
未来は、涙を流しながら頷いた。
「わたしを、愛していないから?」
「あぁ。俺は愛する人を見つけてしまったから」
健介は、肩の力を抜くとテーブルに肘をついた。
「種を蒔いたのは俺の責任だ。その責任は取るよ。もし、中絶したいのら、その費用を工面する。未来が子供を産みたいのなら、俺は何でもする。その気持ちはもう固まってる。だが、」
「わたしとは結婚しないっていうのね。……健介の気持ちはわかった」
未来は、急いで立ち上がり涙を拭った。
「せっかく来てもらったんだけど、帰ってもらっていい? わたし、一人になって考えたいの」
「わかった」
健介はゆっくりと立ち上がり、震える神経を落ち着けようとした。
そして、先程から気になっていた事を言った。
「未来…最初は病院へ行こう。俺も一緒について行くから。はっきりとした時点で、どうすればいいか考えればいい」
「考えても、健介の意思は変わらないんでしょ?」
未来の震える声が、健介の心に重い石を投げ込む。
だが、健介はその部分だけは妥協出来なかった。
「あぁ、変わらない。…じゃ、連絡待ってるよ」
そう言うと、健介は玄関に向かった。
 
 
明るい太陽が、目を射す。
健介は手をかざして、その陽を遮った。
これから、どうなるんだろう?
健介は、胸に痛みを覚えながら足を踏み出した。
 
あぁ、菜乃!
 
思わず目頭が熱くなり、健介は指で目元を押さえた。
この予想外の出来事について、どう菜乃に説明しようかと思いながら、健介は荒れ狂う気持ちを抱えて駅へと向かったのだった。

2004/05/22
  

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