『十五年ぶりのはじめまして』【2】

「睨んだとおりだな。コンパに戻る気がなく、帰るだろうって俺の読みは当ったわけだ。……まぁ、一応化粧室には行ったみたいだけど」
 昔の記憶が素早く蘇る。


「ナノハナは、ボクといっしょがいいんだ!」
 独り占めをするように菜乃の手を握ると、健介はジャングルジムまで駆け出した。


 自然と菜乃の手を握っていた健介の小さな手は……今では大きくなって、その手で菜乃の躯を支えてくれていた。
 さらに、あの頃とは全く違って彼は逞しい躯つきにもなっている。
 健介に抱き寄せられていると気付くと、菜乃は顔を赤らめて彼のの腕から逃れた。
「わたしがいなくても、別に……。どうせ、すぐに帰るって約束だったから……参加したんだもの」
「ふ〜ん。……っで、そんなふらふらな状態で帰ろうとしたわけ?」
 誰のせいでこんなにも呑んだと思っているのか……と言いたかったが、菜乃はグッと堪えた。
「……いつもの事だから」
(嘘ばっかり。いつもは、シラフのくせに)
 健介は菜乃の事を思い出してくれたのでない事を思い出すと、菜乃は手をヒラヒラと振った。
「……じゃぁね」
 顔も見ずに健介の横を通り抜けると、店から外へと通じるフロアに出た。
 エレベーターが止まるとすかさず中に入ったが、何と健介までが入ってきた。
「何……してるの?」
「送ってく」
(はぁ〜? 健介ってば、いったい何言ってるの?)
 健介の真意を図ろうと視線を上げた時、彼の柔らかそうな唇が目に入った。瞬間、悠子とのキスシーンが脳裏に鮮やかに浮かぶ。
「結構よ! 悠子が待ってるんでしょう?」
 嫉妬染みた事を言ってるとはわかっても、どうしてもそう言わずにいられなかった。
 彼にこの気持ちがバレていない事を祈りながら、チラリと健介を見上げる。すると、ニヤニヤしながら菜乃を見下ろしている健介の目とばっちり重なった。
(うわっ! 健介に全部バレてるみたい……)
 気まずい思いをしていると、エレベーターが止まった。すぐにそこから出ると、健介を振り切るように歩こうとしたが、ふらつく足がいう事を利かない。
 さらに、いつの間にか健介に腕を掴まれて、支えてもらいながら歩いていた。
(……男の人に頼れるって、何て素敵なんだろう。これが彼氏とかなら、全然文句ないんだろうけど)
 菜乃の腕を掴む健介の手は、昔の健介の手ではない。
 一瞬瞼を閉じると、菜乃はため息を吐いた。
「……ねぇ、本当に戻っていいよ」
「俺の事、そんなに気になる?」
(当たり前。初めて会うわけじゃないのにはじめまして≠ネんて、初恋の男に言われたら……気になるに決まってるじゃないの)
 菜乃は、彼の問いに答えなかった。
「俺は気になるよ、……桜田さん」
 その言葉にびっくりすると、菜乃は健介を仰ぎ見た。
「本気で、言ってる、の?」
「あぁ」
(それって、わたしの事……何か思い出したの? ……ううん、違う。だって、健介はわたしの事を桜田さん≠チて言ったもの)

 ふと気付くと、ラブホの通りが見えた。
 菜乃は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
 もし、菜乃があの通りに入ったら、健介もついて来るだろうか? もし、その内の一つのラブホに入ったら……健介も一緒に入ってくる?
 菜乃は、賭けようと思った。
 今まで好きな人なんて現れなかった。そして、きっとこの先も現れる事はないだろう……健介以外には。
 今は、はっきりそうだってわかる。
 もし、このまま健介と別れたら、後悔するかも知れない。
(わたしだって、付き合っていた彼氏は高校時代にいた。だけど、それは興味本位で付き合っただけにすぎない)
 だから、どうしてもあと一歩が踏み出せなかった。
(どうせ抱かれるなら、わたしから好きになった男とがいい……。初めては、好きな人に捧げたい。そう、健介に!)
 このまま別れたくはなかった。菜乃は思い出が欲しかった。
 唾をゴクリと呑み込むと、菜乃は賭けに向かって踏み出した。
 健介は、菜乃を支えながら躊躇せずラブホ通りを歩いた。
(い、い、今よ!)
 勇気を出して向きを変え、ある一つのラブホに入ろうとすると、健介も同時に向きを変えた。

 菜乃の賭けは勝った……。
 でも、どちらが先に仕掛けたのだろうか?
(……わたしには、わからない)



 * * * * *



「……ちょっと、待って! もしかして……初めて?」
 引き攣る痛みに顔を歪めながら、菜乃は小さく頷いた。
 健介の怒張した彼自身が、少し入ったところで止まっている。
「お願い! ……っ早く、この苦痛から、助けて!」
 健介は激しく胸を上下させながら、菜乃の顔を凝視していた。一瞬瞼をギュッと閉じると、何かを罵りながら、健介はゆっくりと腰を引いた。
 途中まで入っていた自身を抜き、ドサッと菜乃の横に仰向けに倒れ込む。
 あともう少しで一つになれるという途中で健介が行為を止めてしまった事に、菜乃は呆然となった。
(どうして? わたしが初めてだから? だから、最後までしてくれなかったの? 何故?)
 愛撫で一度満たされた菜乃はいいが、健介はヘビの生殺し状態。それなのに、どうしてどうして途中で止める事が出来るのだろうか?
 悔しくて、涙が溢れてきた。
 健介から躯を背け、嗚咽を枕で消そうとしたが声が漏れる。
「泣くなよ……泣かないで、ナノハナ」

 ―――ナノハナ。

 菜乃は、一瞬で涙が止まった。

「なのちゃんって、かわいいね。しってる? これ、ナノハナっていうんだ。まるでなのちゃんみたいだね。うん、ボク、これからなのちゃんのこと……ナノハナってよぶよ」

(ナノハナって……、まさか……健介!)
 菜乃は涙に目を光らせたまま、振り返った。
「健介……今、わたしの事を、」
「やっとナノハナも、俺の事健介って呼んでくれた……」
 二人の視線が絡み合い、熱い火花が散る。
 それは、コンパで初めて視線が合った時と、全く同じ情熱の火花だった。
「自己紹介する前から、お前がナノハナだってわかってたよ。だが、お前は桜田菜乃って言った。俺が知ってるナノハナは……河原菜乃(かわはら なの)って名前だった」
「あっ……」
 確かに、菜乃は自己紹介をする時、健介の知らない名字でそう名乗った。
「一瞬、学生結婚してるのかと思ったよ。だからすぐに左手を見た。でも、そこには何もなかった。一瞬、お前がナノハナとは別人かもって思ったが……最初に視線が合った時、間違いなくナノハナだってわかった。なのに、お前ときたら……俺が誰かわからないみたいなフリするし、添田とばっかり話すし」
「違う。わたしだって、すぐに健介だってわかった! なのに、はじめまして≠チて言うんだもの。健介こそ、わたしの事忘れてると思ったんだよ?」
「当たり前だって! 俺は桜田菜乃とは、初対面だったんだ。……ユニークをつけたつもりだったんだが……ナノハナは俺をシカトするし」
 つまり、二人は最初から相手が誰かわかっていたのだ。わかっていて……一緒にラブホに入った。
「何故、河原から桜田に?」
 健介の指が、菜乃の喉元を撫でたかと思ったら、胸の谷間へと指を這わした。
 それを遮るように、菜乃はシーツで抑え込んだ。
「お母さんが再婚したの。わたしたちがマンションから引っ越したのは、離婚する為だったみたい」
 健介は、納得したというように頷く。
「ねぇ、どうして途中で……そのぉ〜、えっち止めたの?」
 頬を染めながら、菜乃は思い切って訊いた。
「止めたくはなかったさ。やっと、ナノハナを手に入れられるって思ったんだからな。だけど、初めてだって知って……こんな風に抱きたくはないって思ったんだ。初めてなら、ちゃんと俺が誰か知って……そして俺に全てを与えて欲しいって思ったんだ」
 健介の目が、キラリと光る。
「俺がナノハナを知っていて、ナノハナを抱きたかったって気持ちを知った今……俺に抱かれてもいいって思う?」
(わたしは、健介だってわかってて抱かれようとしていたのに、今さらそんな事を訊くの?)
 菜乃は微笑んだ。
「訊かなくてもわかるでしょ」
「あぁ……ナノハナ」
 健介が覆い被さり、想いを伝えるようにキスをする。
 手がシーツを剥がそうとした時、菜乃は健介の手を握った。
「何?」
 情熱に輝く健介の瞳を、菜乃は一身に見つめた。
「お願いだから……ナノハナは卒業して? わたしを菜乃って呼んで」
「……仰せのままに、菜乃」
 再び唇が、覆い被さってきた。舌を絡ませ、二人は相手を喜ばせようとした。
 健介の唇が菜乃の耳元へ移った時、彼がそっと囁いた。
「今日って、何の日か知ってる?」
 欲望に疼く躯に意識が集中し、思考回路はパンク寸前で考える事など出来なかった。
「な、に…?」
 耳元で、クスッと笑った息がかかる。
「今日は、7月7日……七夕だよ。……やっと、10年以上も前の願い事が叶ったよ。菜乃、愛してるよ」
 と、最後の言葉だけ……掠れた声で囁かれた。
 菜乃は、この偶然の出会いを感謝するように、健介を愛おしく抱き締めたのだった。

2003/07/07
  

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