第二章『華の蜜に誘われて』【15】

 本来はゲスト用に作られたバスルーム。今は叶都専用のバスルームとして使っているようで、男物の整髪料が置かれていた。
 一緒に浴びようという叶都を締め出して、乃愛はひとりでシャワーを浴びた。
 叶都の匂い、こびりついた血を洗い流すと、ふわふわのバスタオルで水分を拭い、ゆっくり制服に着替えた。
 足を上げるだけで膣に痛みが走るので、まだ俊敏に動くことができない。
 叶都の部屋からこのバスルームに行く時でさえ、乃愛はまだ遺物を感じていた。がに股で歩く乃愛を見て、笑う叶都。
笑うんじゃないの! そんな風に笑うんなら、もう叶都とはえっちしないからね!≠ニ言って、彼の笑いを止めさせたのは数10分前のこと。
「本気でそんな風に思ったんじゃないんだけど。でも、それですぐに笑わなくなって顔を青ざめたってことは、本気でわたしを愛してくれてるってことだよね?」
 乃愛は、ジッと鏡に映る自分の顔を眺めた。セックスしたことでどこか変わったか、それを探るために。
 でも、何も変わったところは見つからない。
 夏に初体験を済ませた友達たちからいろいろと聞いていたのに、自分にはその変化は全く見られない。
「何よ、皆が言ってることって嘘じゃん!」
 残念な気持ちに吐息をつき、鏡の横にある叶都の櫛で長い髪を梳かした。
 タオルを巻いて水で濡れないようにしていたが、先端がかなり濡れている。タオルでしっかり叩いて水分を拭うと、ドライヤーで乾かす必要もないように思えた。
 使い終わったタオルを籠に放り込むと、叶都の元へ行くためにバスルームの戸を開けて廊下に出た。
 
「……里井、さん?」
 乃愛の心臓がドキンッと高鳴る。ゆっくり廊下の奥へ視線を向けると、そこには叶都の部屋へ続く廊下へ足を向けようとしている彼の母がいた。
「お、おばさま……?」
 乃愛の声が、勝手に震える。
 見られてはいけない場面を、見られた時のように……
 目の前にいる叶都の母からは、夫以外の男性に抱かれていた形跡は全く見受けられない。初めて会った日のようにとても綺麗で、上流階級夫人の名に相応しい立ち居振る舞いで乃愛を見つめている。
 その瞳は、訝しげに細められていたが……
「そこは、叶都のバスルームよ。里井さんが、どうしてそのバスルームから出てくるの?」
「わ、わたしは!」
 
 ―――ドンッ!
 
 乃愛と叶都の母の後方で、ドアが開く音がした。そちらを見ると、叶都がドアを開けてこちらを見ていた。
 乃愛が叶都の部屋を出た時、彼はまだ真っ裸だった。それが今は、スエットパンツにTシャツを羽織っている。
 思わず、安堵からホッとため息が出た。
 だがすぐに乃愛の視線は、彼の股間へ移った。
 下着を身に付けているのか、興奮からそそり勃っていた叶都の逸物がどうなっているのか、どうしても気になってしまう。
 必死に頭から振り払うようにして、乃愛は彼の顔に視線を移した。
「何か用?」
 焦る様子もなく叶都は腕を組み、壁に凭れながら母親を見つめている。
「……もう家庭教師の時間は終わってるのに、里井さんが一向に下へ降りてこないら心配して、何かあったんじゃないのかなと思って」
「何心配してんの? 俺が以前のカテキョと同じことを乃愛にするとでも?」
 チラッと叶都が乃愛を見つめ、すぐに母親に戻す。そこで卑屈そうに笑った。
「乃愛がさ、俺の欲望の捌け口になってくれるって本気で思ってんの?」
「叶都!」
 叶都の母が、戒めるように大声で叫ぶ。
「……安心しなよ。今までの女たちと乃愛は全然違うってわかってるし」
「そ、そう?」
 そこで、叶都の母がクルッと乃愛へ視線を向ける。
「どうしてバスルームから出てきたの? 髪が濡れてるのはどうして?」
「そ、それは……」
「……俺が乃愛に雪を投げつけたんだ。母さんは知らないんだ? 外では雪が降ってるって。ずっと下にいたんだろ? 窓から雪が見えるはずだけど?」
 途端、叶都の母は慌てて目を泳がせる
「お、お、お母さんだって、いろいろ忙しくしてて。由布がぐずって……。あっ、由布を見てこなきゃ! 里井さんは、このまま帰るのよね?」
「はい」
「わかったわ。……じゃ、来週の火曜日もよろしくね」
 叶都の母は言い捨てるなり、急いで身を翻した。階段を降りようとしたところで、ピタッとその動きが止まる。
「あっ、そうだったわ! 火曜日は法事があるからお休みにしてくれる? 金曜日はクリスマスイブだけど、里井さんもデートあるでしょ? 家庭教師はお休みにする?」
「乃愛は来るよ」
 乃愛に訊いているのに、叶都がすかさず答える。
「そ、そう? じゃ、来週の金曜日にね」
 叶都の母は、今度こそ慌てて階段を駆け降りてた。
 
「ふんっ! 外を見る余裕すらなかったか、急いでカーテンを引いて二回戦に突入したか……」
 叶都が舌打ちしながら呟く。勃然としたその表情に、乃愛は急いで叶都の元へ近寄った。
「ねぇ、雪が降ってるって本当?」
「あぁ」
「じゃ、急いで帰らなきゃ! バッグとコート、取ってくるね」
 叶都の横を通って、部屋に入る。コートを羽織り、マフラーを巻くと、筆記用具とプリントしか入っていない小さなバッグを手に取った。
「……気に食わない」
「えっ?」
 入り口で腕を組ながら、叶都はふてくされたように乃愛を見つめる。
「せっかく両想いになったっていうのに、何だよ! 早くここから立ち去りたい……みたいなその態度!」
 叶都の態度がおかしいと思ったが、すぐに彼の側に寄るとそっと腕に手を置く。
「今日は、いつもみたいにバス停まで送ってくれないの?」
「……送るよ」
 Tシャツの上からダウンジャケットを羽織ると、乃愛の背を押して階段へと促す。
 玄関へ行き、靴を履いて外に出ても、大きな門を通り抜けて道路を歩いていても、叶都はブスッとした態度を崩さなかった。
 もしかして、叶都好き♪≠チて気持ちを外に出していなから、ふてくされてるのだろうか?
 付き合い始めた初日に、えっちまでしたというのに……
 薄ら積もった雪を踏みしめながら、ポケットに手を入れて歩く叶都。それを見ながら、乃愛はそっと手袋を外す。
「叶都」
「あ?」
 叶都の肘に手を添えてから下へ滑らし、ポケットから彼の手を引き出すと、その手に自分の手を滑り込ませた。
「へへっ」
 照れたような笑みを零す。逆に、突然の触れ合いにビックリしたのか、叶都は面食らった表情を浮かべた。
「叶都の家からバス停までの距離はちょっとだけど、こうやって歩くのもいいものよね」
 もう一度にこやかに口元を綻ばせると、叶都は乃愛から顔を隠すように軽く俯いた。
「叶都? ……嫌だった?」
 もしそうなら、すぐにこの手を離さなきゃ――手を引っ込めようとしたら、その手をギュッと握ってきた。そして、乃愛の視界を遮るように前から顔を近付けると、唐突に唇を奪う。
「……っんんぁ」
 キスを止めると、叶都は乃愛の肩に顔を埋めた。
「これからは、いつもそうやって……気持ちを出して。俺を、有頂天にさせて」
 これは、叶都の本音だとわかった。乃愛はそっと両腕を上げて、叶都を抱きしめる。
「うん……。でも、叶都もだよ?」
「ああ」
 ゆっくり身を起こすと、叶都はもう一度乃愛の手を強く握り締めてから歩き出した。
 バス停に着いてベンチに腰を下ろしても、二人はずっと手は繋いでいた。
「乃愛、来週のイブ……勝手に決めてゴメン。でもさ、一緒に過ごしたいんだ。家庭教師としての時間なら、ふたりきりで部屋に籠っていられるし」
 叶都と一緒に過ごすイブ!
「もちろん!」
「……ありがと」
 照れを隠すように足を投げ出してベンチの背に凭れる叶都を見ながら、乃愛はクスクス笑った。
 プレゼント、用意しなくっちゃね! 何にしようかな――と考えながら叶都の肩に頭を乗せて目を瞑る。
 親友の夏海と、過ごそうとしていたイブ。運良く、夏海から断ってくれたので、何も心配することもなく叶都と過ごせる。
 嬉しくて忍び笑いを漏らす乃愛の頭に、叶都の頭がコツンと当たる。
「乃愛……、俺……本当にお前が大好きだから」
「……わたしも好きだよ、叶都」
 再び叶都が顔を寄せ、乃愛の唇を塞いだ。
 甘くて優しいキスを、乃愛は自然に受け止めた。目の前は幹線道路で、かなり車が行き交っているのに。
 この幸せがずっとずっと続きますように――と願いながら、自ら叶都の方へ身を投げ出す。
 その時、バス停から10数メートル離れたところで、急ブレーキを踏んだ車が停まった。
 後部座席に座っていたその人物は、目を疑うように振り返り、バス停のベンチに座ってキスを交わす乃愛と叶都を見つめる。
 誰かに……それも乃愛のことを見知った人に見られてるとは全く気付かず、乃愛は幸せいっぱいになりながら叶都のキスに応えていた。

2011/05/06
  

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