第二章『華の蜜に誘われて』【10】

 叶都がキスを止めて顔を離すと、乃愛は甘い吐息を漏らした。閉じていた瞼がピクピク動くのを感じながら、ゆっくり瞼を開ける。乃愛を探るように見つめてくる叶都の瞳と、至近距離でぶつかった。
 彼の瞳には、あの心に秘めた闇はもうなかった。情熱の光に取って代わり、今ではジリジリと燃えるような目をしている。
 叶都に抱き上げられたまま、ふたりはしばらく見つめ合った。
 こんなにもジッと見つめられたことがない乃愛は、照れを隠すように叶都の後ろへ視線を逸らしす。
 いつの間にか、2階へ上がる階段の下まで来ていた。
 乃愛を横抱きにしたままキスを繰り返し、ここまで歩ける叶都の自制心に驚かずにはいられない。
 叶都は、まだ中学3年生。にもかかわらず、乃愛よりもこの状況を冷静に対処しているなんて……
 腕に抱いていた乃愛を、ゆっくりフローリングに下ろす。キスのせいでふらつく乃愛の腰を掴んでくれたが、きちんと立っていられるとわかるとゆっくり身を離した。
「かな、と?」
 小さな声で問いかけるように囁くと、叶都は口を開かずに真っ直ぐ乃愛を見つめてきた。
 どれぐらい見つめ合っていたかわからないが、突然叶都が手を差し伸べてきた。言葉を発しなかったが、この手を取るんだ!≠ニ目で訴えかけてくる。
 叶都への気持ちにやっと気付いたっていうのに、まだ彼を拒むと思っているのだろうか?
 口元を緩めて笑みを浮かべると、乃愛は叶都の手に自分の手を重ねた。その行動に驚いたのか、彼が鋭く息を吸う。
 乃愛の心理を探るように、叶都は手をギュッと握り締める。そのまま手を引っ張られ、彼に引き寄せられても嫌がらなかった。
 もう一度意思を確認するように、乃愛の目を覗き込んでくる。それでも、叶都から目を逸らそうとしなかった。
 もう叶都から逃げない。自分の気持ちからも逃げないって決めたの……
  乃愛の手を握ったまま、叶都が静かに階段を上がり始めた。彼に習って足音を立てないよう、あとに続く。
 
 まだ数回しか入ったことのないが、既に見慣れた叶都の部屋。
 室内に一歩踏み入れただけで、いつもと違ったドキドキ感が乃愛の中いっぱいに広がった。
 叶都は部屋の鍵をかけ、そのままベッドへ誘う。そこに腰を下ろすように促されると、乃愛は素直に従った。
 傲慢な態度で乃愛を翻弄するいつもの叶都は、もうそこにはいない。乃愛には横顔を見せる形で、ただ静かに前をジッと見つめている。
 このまま階下で起こったことを訊くような真似はせず、そっとしておくべきなのかもしれない。
 だが、二人して一緒に見たのに、そのことを話題にもしなかったら、変に意識していると言うようなもの。
 気を使うのではなく、今までと全く変わらない態度で叶都に接しよう。その方が、彼も嬉しいに違いない。
 いつものままでいいのよ――と自分に言い聞かせながら、恐る恐る口を開く。
「叶都は知っていたの? おばさまのこと?」
「ああ、知っていた……」
 こちらを見ようとはしないが、乃愛の問いを無視するつもりはないようだった。
 お前には関係ない――と突き放されても仕方がないのに、乃愛には隠そうとしない叶都のその気持ちがとても嬉しかった。
「おじさまは、このことを?」
「知らない。気付きもしない。なあ……知ってたか?」
 叶都が、いきなり乃愛の方に顔を向けた。泣きそうになっている――と見間違えるほど、彼の表情は醜く歪んでいる。
「母さんは……アイツと会うためだけに、父さんに頼んで俺にカテキョをつけたんだ。秘密の時間を作るためだけに。俺がそのことを知ったのは、ふたり目のカテキョとセックスをする前だった」
「叶都……」
 他の女性とセックスをしたというその言葉はもう聞きたくない。仮にも、好きな人が年上の女性に可愛がられてると想像するだけで、嫉妬が込み上げてくる。
 でも、そこに走るしかなかった叶都のことを思うと、ギュッと抱きしめて彼を慰めたくなった。
 抱きしめる代わりに、乃愛は自然と叶都の大腿に手を置いた。
「何とかして、ふたりを引き裂きたかった。昨年、母さんが身籠もった頃、アイツの足はこの家から遠のいた。やっと平穏な日々を過ごせると思っていたのに、また俺にカテキョをつける話が出た。そして、アイツが再び現れるようになった。由布は……父さんの子か、それともアイツの子か、俺にはわからない」
 力なく頭を振る叶都。
 乃愛の目の前にいる叶都は、遊びたい盛りの中学生ではない。痛みを抱えたことで、心も躯も成長するしかなかった男だ。
 もしかしたら、叶都は自分が問題を起こすことで、母親の意識を家族へ引き戻そうとしたのかもしれない。
 叶都は、以前言っていた。セックスをしていた相手が家庭教師だと知られて、その家庭教師たちは辞めさせられたと。
 つまり、母親が叔父とふたりきりで会う時間を叶都が潰したことになる。
 でも、また乃愛という家庭教師をつけた。叶都が、また荒れるのも仕方ないことだろう。
 そう納得しかけたが、乃愛はふと叶都と会ったときのこを思い出した。
 彼は乃愛にキスをしたり、思わせぶりな態度で接したりしたが、ベッドに誘うようなことはしなかった。つまり、叶都は以前の家庭教師とは全く違う接し方をしているということになる。
 母親の密会時間を作るために家庭教師として雇われたのに、どうして叶都は乃愛を追い払おうとしなかったのだろうか?
「父さんには知られてはいけない……。知ったら、何をするか……」
 叶都の呟きが耳に届くと、乃愛は彼の言動の裏に何があるのかと探るのをやめて、再び叶都に目を向けた。
 髪はいつものようにワックスで立たせている。制服も、崩して着ている。一見、夜遊びばかりしているように見えるが、乃愛の前にいるのはたった一人で孤独と戦ってきた男だった。
 ひとりで抱え込まないで。わたしが、叶都の側にいるから――と伝えるように、乃愛は両腕を上げて彼に抱きついた。さらに彼の首に顔を埋めて、ギュッと腕に力を入れる。
「……乃愛?」
 叶都が、そっと乃愛の背に手を置く。優しく、労るように……
 突発的な行動を取ってしまったことに恥ずかしさを覚えたが、乃愛はそれ以上に叶都を包み込んであげたかった。叶都は一人ではないと知って欲しかった。
「わたしも、もし自分のお母さんが……って思ったら、苦しくて堪らなくなる。だから、叶都が悩んでしまうのもわかるわ。でも、わたしはそんな叶都の姿を見るのはイヤなの」
「乃愛……」
 自分から告白なんて一度もしたことないのに、今まさに想いをつげようとしている。
 自覚した途端、乃愛の心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。尻込みしてしまいそうだったが、もうこの気持ちを隠しておくことはできない。
 ゆっくり叶都から身を離すと、苦笑いを浮かべながら彼の目を見つめた。
「叶都の言うとおりになっちゃった……。叶都は年下だからって言い聞かせていたのは、気持ちを押し止めておく堰だったのに」
「つまり?」
 その先を言わせようと、叶都が問いかける。乃愛は、観念したように瞼を閉じた。
「叶都が好き……。おばさまのことで一人で耐えていたと知ったら、さらに好きになっちゃった」
「乃愛!」
 いきなり二の腕を掴まれて揺さぶられた。びっくりして目を見開くと、乃愛を覗き込むようにする叶都がいた。
「俺の目を見て……はっきり言ってくれ」
「えっ?」
「俺が勘違いしないように、俺に向かってきちんと言ってくれ」
 乃愛は、真摯な目を向ける叶都を見つめ返した。
 俺が3つも年上の女を本気で相手にするのか?――と言われるのを覚悟で、もう一度気持ちを吐き出す。
「叶都が好きよ。わたしより年齢は下かもしれないけれど、叶都のココは同級生の男子たちよりもずっと大人だわ」
 叶都の心臓に手を置きながら、乃愛は囁いた。掌から、叶都の心臓の音が伝わってくる。乃愛の心臓と同じように、そこは早鐘を打っていた。

2011/04/10
  

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