第二章『華の蜜に誘われて』【7】

 駅前のカフェに連れ込まれると、各々好きな飲み物を頼んだ。
 叶都のアメリカンコーヒーと乃愛のカフェラテが用意されると、乃愛はトレーを受け取った。どこに座ろうかキョロキョロする乃愛に、叶都は壁際にある二人掛けソファを指す。
 隣り合わせで座ろうと誘っている?
 叶都の部屋でも隣に座ることがあるから別に構わない。でも、バスの中で起こった親密な行為が、自然と乃愛の脳裏に浮かんだ。
 叶都や自分の反応を振り払おうとして、激しく頭を振る。
 公共の場で、あんなことをしようと考えているはずがない。そもそも叶都が何かをしようと考えているのなら、とっくに手を出しているはず。
 何かが起こると身構えて、警戒する方が頭がおかしい。
 軽く俯いて苦笑いを浮かべると、叶都に言われたとおり二人掛け用のソファに座った。その隣に、会計を済ませた叶都が座る。
「ほら」
 乃愛のカフェラテの横に、叶都は生クリームがたっぷり載ったカップケーキを置いた。
「えっ? どうして?」
「俺んとこに来たら、いつも吉川さんのケーキを食ってるだろ? 今日は食わせてあげられないから」
「ちょっと待って! あれは……残したら悪いなって思って。……ああっ! もしかして、叶都はわたしを太らせる気満々なんじゃ!?」
 顔を顰めて身を後ろに退き、乃愛を見る叶都の顔をマジマジと見つめた。
「乃愛を太らせようとしてる? 俺が? 何で?」
「だって、そうとしか考えられないもの! これでもめっちゃくちゃカロリーを気にしてるんだからね」
 今度は、逆に叶都が乃愛の躯を舐めるように見つめる。
「ずっと制服だったから気にしたこともなかったけど……出てるとこは出てて柔らかかったし、腰も細かった。特に気にする必要ないんじゃねえの? 俺は、今の乃愛で十分だけど?」
 意味深なその言葉に、乃愛は目を大きく開いて口をパクパクさせた。
(な、何でそんなことを……言うのよ! また思い出しちゃったじゃない! そのぉ、叶都のアレが硬くなってたとか、わたしの口から変な声が出ちゃったとか)
「じゃ、じゃあ……食べるわよ!」
 この微妙な空気をどうすればいいのかわからず、乃愛は叶都から顔を背けるとフォークを手に取った。生クリームが絡まるようにしてから、口にケーキを放り込む。
「っんん! 美味しい」
 口腔に広がる甘さに、乃愛は至福の笑みを零す。
「ついてる……」
「えっ?」
 いきなり叶都の手が乃愛に伸びてくる。
 乃愛の頬を包むように触れながら、唇の端を親指で拭う。叶都の手が離れて、初めて彼の指に生クリームがついているのがわかった。
 焦りながら、手の甲で唇を拭う。恥ずかしさから乃愛の頬が熱くなり、白い肌がどんどん染まっていく。
 そんな乃愛の目を見ながら、叶都は堂々と舌を出してその指についた生クリームを舐めた。意味深なその目つきに、心臓がドクドクドクッと早鐘を打ち始める。
 叶都の視線に囚われてしまい、乃愛は為す術もなくその場でカチンコチンに固まっていと、後ろから囁き声が聞こえてきた。
「ねえ、あのカップルってすっごいお似合い! 男の方がぞっこんって感じだよね」
「いいなぁ〜、彼めっちゃカッコイイじゃん! あんな彼氏がいたら、何でも言うこときいちゃう」
 その言葉に、乃愛はさらに頬を染めた。恥ずかしくて堪らなかった。
 過去に彼氏もいた。デートだって何十回もしてきた。こうやってカフェで彼氏とイチャイチャしたこともある。
 その時は、一度も恥じらいなんてものを感じなかった。それが今では、叶都の前で恥じらいが芽生えて、どう対処していいのかわからなくなっている。見つめられるだけで火照りだしてきて、躯の芯が震えてくる。
 いつからこんな症状が起こるようになったのかわからないまま、乃愛は狼狽えていた。
 そんな乃愛の方に、叶都がゆっくり身を傾けてくる。
 それ以上近寄らないでよ!――と声にならない悲鳴を心の中であげる。
 こんな場所であの日のようのキスをされるはずないとわかっていても、乃愛は軽く俯いて瞼をギュッと閉じた。
 叶都の髪が、頬を掠める。
「なぁ、今の聞こえた? 俺が彼氏だったら何でも言うことをきいてくれるんだってさ。乃愛は? 俺の言うことだったら何でもきいてくれる?」
 乃愛がパッと目を開くのと同時に、叶都がゆっくり身を後ろに退いた。叶都は、楽しそうにしながら乃愛を見つめている。
「ば、バカ! わ、わたしは、中学生なんて眼中にないもん!」
 テーブルに置いてあるマグに手を伸ばすと、すぐにカフェラテを啜った。
 今の言い方、ちょっと悪かったかも知れない。でも、叶都が乃愛を苛めてるようなことを言ったら、そう言うほかなかった。
 大人気ない態度……
 いくら翻弄されたからと言って、やっぱり自分が悪かったと思い直すと、謝るためにゆっくりと叶都の方へ向く。
 それを待っていたのか、叶都は全てお見通しと言わんばかりに、楽しそうに乃愛を見つめる。
「ほんの数ヶ月したら、俺も高校生。きっと、乃愛を追い越すほど身長も伸びるし、今より絶対いい男になる。それがわかっているのに、どうして唾をつけておかないんだ? 乃愛って、本当見極めが悪いよな」
「なっ!」
「後で惜しくなっても知らないぞ?」
 何か一言言い返したいのに、口から出るのはただの吐息のみ。彼に対抗しても無駄だとわかると、乃愛は諦めたようにもう一口カフェラテを飲んだ。
 叶都も乃愛に習って、テーブルに手を伸ばしてカップを取る。口元にカップを運ぶのを横目で見てから、叶都へ視線を向けた。
(……良かった。いつもの叶都に戻ってる。わたしをからかっては誘惑を仕掛けていた時のように。ねえ、叶都。いったい何があったの? 家で、おばさまから怒られたとか?)
 優しそうに微笑む叶都の母が、彼をしかりつけるようには思えないけど、家から飛び出してきたということは、きっとそこで何かがあったのだろう。
 悩みを打ち明けてくれたらいいのに……
 乃愛の視線に気付いて、叶都が横を向く。
「何? ……見蕩れるほどいい男だなって?」
「……うん、ちょっとね」
 乃愛の言葉に、叶都が目を大きく見開く。いつもなら噴き出して笑うのに、乃愛は自分がポロッと口に出した言葉が信じられず、呆然と叶都を見つめ返した。
 これって、どういう意味? つい口から出た言葉に、何か意味があるの?

 それから三時間ほどカフェで一緒に過ごすと、叶都がトレーを押した。
「もう帰らないと、家の人が心配するだろ?」
 叶都の方から腰を上げ、乃愛が帰りやすいように促してくれた。
「うん、そうだね」
 もうちょっと叶都と一緒に過ごしたい――とは、言えなかった。叶都に続いて腰を上げると、バッグをしっかり持って一緒に外へ出る。
 コートのポケットに手を突っ込むものの、肌を刺す凍えそうな寒さにブルッと躯が震えた。
「ううっ、寒い……」
「大丈夫か?」
「うん。わたし、極端に寒がりなの」
 肩を竦めて笑ったが、すぐにバス停を指す。
「さあ、行って。わたしは電車に乗るだけだし。叶都の家に行くバスが来てるよ」
「わかった。じゃ、乃愛……気を付けて」
 叶都が動こうとしないので、乃愛は彼に背を向けて駅の改札に向かって歩き出した。
 後ろを振り返って、叶都がバス停に向かったか確かめたい。でも、もしそうしてしまったら叶都に負けてしまうような気がして、乃愛は振り返られなかった。
 でも、バッグから電子カードを取り出して改札を通る時、意志とは裏腹に自然と彼と別れた場所へ視線を向けた。
 叶都は乃愛と別れた場所で立ち尽くし、ずっとこちらを見ていた。
 視線が合えば逸らすこともできず、乃愛は微笑みながら手を振ると改札を通り抜けた。叶都の視界に入らなくなったところで、ピタッと立ち止まる。
「叶都……」
 あえて見ないようにしていた違和感が、急に乃愛の心を支配し始める。
 バスの中で乃愛に見せた苦しそうな表情は、カフェでは一切見せていない。元に戻ったと言っていい。
 それを受け入れていいのだろうか? 叶都に何があったのか、本当に訊いてあげなくていいの?
 乃愛は勢いよく踵を返すと、改札に向かって走り出した。叶都がまだあの場所に立っていると信じて、改札を出る前に視線を向ける。
 行き交う人の波、賑わう店舗は目に入るものの、そこにはもう叶都の姿はなかった。
「帰っちゃったか……」
 肩を落としながら、乃愛はホームへ続く階段へ歩き出した。そんな乃愛の脳裏に、叶都の姿が浮かぶ。バスの中で見せたあの表情も。
 叶都の心が見え隠れしたあの目は、一生忘れられないだろう。
 知らず知らずに、乃愛の心は憂いを見せる叶都へと傾き始めていた。

2011/02/16
  

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