第一章『愛を忘れられないまま』【2】

 カフェの看板メニューの一つでもあるアップルパイをお皿に盛り、アメリカンコーヒーを淹れる。
 準備を終えたところで、乃愛はスタッフルームへ視線を向けた。
 夏海は柱の影から顔を覗かせて、早く持って行けと身振りで伝えてくる。
「もう、夏海ったら……」
 苦笑いを浮かべながら、乃愛は奥に座る奥園の元へ向かった。
 彼の前に、アップルパイとアメリカンコーヒーを置く。
「お待たせいたしました」
「今日はどう? 忙しいかい?」
 奥園はテーブルに肘を置き、そのまま乃愛を見上げた。
 彼は、誰もがうっとりと見てしまう男性とは言えない。それでも、奥園を見ているだけで、自然と乃愛はリラックスをすることができた。
 はっきりとした二重の下にある双の瞳は、一点の曇りもないように見える。彼の鼻はしし鼻なので乃愛の好みではないが、その下にある愛嬌がたっぷりの唇と合っていた。
  奥園の明るい性格と組み合わせれば、とても魅力的な男性だと言える。
「いつも同じことを訊くんですね」
 乃愛は、クスクス笑った。
「忙しいのに、俺が乃愛ちゃんを独り占めしていたら……夏海ちゃんに悪いかと思って」
「それは、つまり……」
 問うように視線を向けると、奥園は乃愛の目の前にある椅子を指した。
「そっ。今日も頼むよ」
 乃愛は、確認するように後ろを振り返ってカウンターを見る。客は皆席に座っているので、特に急ぐ仕事はない。店内にも問題はなく、心地好いBGMが静かに流れている。
「わかりました」
 その返事を受けると、奥園はすぐに上着を脱いだ。
 意気揚々と袖を捲る彼を見て、乃愛は思わずプッと噴き出して笑う。
「何? 俺、何か変だった?」
「だって、いかにも待ってました……って感じで用意を始めるから」
 照れたように口元を綻ばす奥園を見ながら、乃愛は一週間前から常備するようになったハンドクリームとタイマーをポケットから取り出した。
 タイマーをセットしてからハンドクリームを手の甲に乗せ、掌でクリームを温める。十分にクリームが伸びることを確認してから、彼の手を取りマッサージを始めた。
「うぁっ……気持ちいい」
 陶酔するようにゆっくりと瞼を閉じる姿に、乃愛はクスッと笑みを零した。
「マッサージも大切なんですよ。掌だけでなく、爪もね」
 奥園は、至福の吐息を漏らしてから目を開くと、うっとりした表情で乃愛を見つめる。
「乃愛ちゃんにしてもらうようになってから、本当にそう思うようになったよ。だけど、男だからかな? なかなかそこまでしようという気にならなくてね」
 奥園の言葉に頷きながら、乃愛は掌にあるツボに圧をかけては、優しく撫でるように揉んだ。手の甲も同じように、円を描きながら揉んでいく。
「あっ、そこ痛い」
「最近、パソコンを使うことが多くなりました?」
「実はそうなんだ。企画書を作ることが多くなって」
「現代病の一つになりつつありますよね。だからこそ、この辺まで……」
 手を伸ばして、奥園の肘手前まで滑らせる。
「くっ……」
 奥園が呻くのを聞きながら軽く揉むと、すぐに手のマッサージへ戻った。
「整体に通われた方がいいかもしれませんね。そうすれば、凝りもマシになると思います」
「そう思うんだけどね。なかなか行けないんだ」
 そこで、タイマーのアラームが小さく鳴った。もう一度タイマーをセットすると、彼の左手も同じようにマッサージを始めた。
 
 
 しばらくの間、無言でマッサージをしていた時だった。
「乃愛ちゃん?」
「はい?」
 気軽に訊き返し、奥園へ視線を向ける。そこで乃愛はハッと息を呑んだ。
 今まで気軽に話していた表情とはまた違い、奥園は真剣な面持ちで乃愛を見つめていたからだ。
「知り合ってまだ二週間ほどだけど……、俺と付き合ってくれませんか?」
 突然の告白に、乃愛は大きく目を見開いた。
「駄目、かな?」
「そんな……。ダメだ、なんて」
 慌てたせいで、思わず吃ってしまう。
「じゃ、いい? 付き合ってくれる?」
 どう返事をしたらいいかわからず、乃愛はそっと俯いた。
 夏海から奥園さんは、乃愛が目当てで頻繁に通っているのよ≠ニ聞かされていても、いつも聞き流していた。
 嫌いな相手でなければ、好意を持たれるのはとても嬉しいものだから。
 乃愛も、そう思っていた。
 だが、実際に告白を受けると、話はまた違ってくる。
(夏海は新しい恋をしろって言うけど、わたしの傷はまだ癒えていない……)
 奥園の手をギュッと掴みながら、彼を見つめる。
「あの!」
 何と言って断ろうか考えもせずに口を開いたせいで、その後の言葉が続かない。
 
 
「いらっしゃいませ」
 突然響いた夏海の声に、乃愛はハッとして後ろを振り返った。店内に入ってきたのは、ル=リオン≠ゥらほど近い場所にある、有名進学校の私立城聖学院の生徒たち。着けているのは、初めて見る紫紺色のネクタイ。
 乃愛は、今まで2年生のうぐいす色と1年生の萌葱色の2色しか見たことがなかった。
 一度、客として来た城聖学院の生徒に訊いたことがある。
 すると3年は語学研修旅行に行ってるから、今は1年と2年だけなんだよね≠ニ教えてくれた。
 つまり、彼らは4月から3ヶ月間語学研修旅行へ行っていた3年生ということ。
 男女2組のグループ。4人なので、夏海ひとりで大丈夫かもしれない。それでも、この場から逃げたい一心で、乃愛は奥園へ視線を戻した。
 奥園から手を離した瞬間、アラームが小さく鳴る。
「ごめんなさい、奥園さん。わたし、今は誰ともお付き合いするつもりはないんです」
 急いでアラームとハンドクリームを手にすると、白いエプロンのポケットに入れた。
 席を立とうとして腰を浮かした動作を制するように、奥園が手を伸ばし、乃愛の手首をギュッと強く掴んできた。

2010/10/02
  

Template by Starlit