『ミラー・シルエット 〜それぞれのツメ跡』【6】

 誰もいない会場前。
 麻衣子はひとりになると、やっと緊張から解放された。
 ただその影響が今になって出てきたのか、躯がぶるぶる震え始める。
 少し落ち着けば、徐々に気持ちも楽になっていくだろう。
 でもソファに座る前に、麻衣子は近くの化粧室に入った。
 伝線しまくりのパンティストッキングを脱ぎ、汚れた足を水で洗う。そして備え付けのペーパータオルで拭き、傷ついた足の裏を見た。
 コンビニエンスストアで見た時よりも擦り傷が酷く、あちこちが真っ赤になっている。
 今までは気が張り詰めていたせいで、酷い痛みを感じてもなんとか頑張れた。でも、緊張から解放されたせいか、まるでそこだけ熱をもったようにじんじんしてきた。
 この状態でピンヒールを履くのは難しい。
 とりあえず梶田が戻ってきたら、ホテルに入っているショップへ付き添ってもらい、靴下か靴を買おう。
 麻衣子は鏡に映る自分の顔を見て、ペーパータオルで汗を拭う。そしてピンヒールを指に引っ掛けると、裸足のままゆっくり化粧室を出た。
 
 その時だった。
 
 化粧室の前を、キャリアウーマンらしき美人女性が通り過ぎる。
 受付で渡したネームプレートを首に引っ掛けていたので、メディア関係者だとわかった。
 会場の方を見ると、誰も人が出てこないので、まだ会見は終わっていない。
 それなのに、さっきの彼女はいったい?
 虫の知らせだろうか。どうしても彼女が気になって仕方がない。
 麻衣子は歩くたびに足の裏がズキズキするとわかっていた。それでも壁に手をついて躯を支えながら、ゆっくり彼女の後ろを追った。
 彼女は麻衣子が追ってきていることに気付かず、妙にウキウキした仕草で前だけを向いている。
 その彼女が廊下の角を曲がるなり、見せた色っぽい笑み。そのまま麻衣子の視界から消えた。
「駿一」
 女性の誘惑するような甘い囁き声が耳に届く。
「……みゆき」
 続いて耳に届いた低い声に、麻衣子の心臓がドキンと高鳴った。
 
 今の声って、もしかして……
 
 麻衣子は恐る恐る廊下の曲がり角まで行くと、壁に背にして立ち止まった。
 そっと顔だけ覗かせると、視線の先にあったのは喫煙コーナー。
 そこに、先ほどの美女と理崎がいた。
「まさか、駿一が水嶋グループにヘッドハンティングされていたとは思わなかったわ。前の会社で見かけなくなったから、どうしたのかと思っていたの」
「……ああ、転職したんだ」
 理崎の優しげな声を聞いた途端、麻衣子の心臓が飛び跳ねる。それはどんどん早鐘を打ち、麻衣子の胸を締め付ける。
 咄嗟に胸のブラウスの鷲掴み、痛みから逃れようと試みるが、ふたりの話し声が耳に届くたび、その痛みは大きくなっていく。
「ねえ、火をちょうだい」
 女性の声に続いて、ライターの回転ドラムを回す音が聞こえ、そして息を吐く音が続いた。
「あら? 駿一は吸わないの?」
「今はいい……」
「そう。ところで、駿一。会場から出てきていいの?」
「俺は、いいんだ。部下たちがきちんと仕切れるか、それを見に来ただけだから。お前はどうなんだ? 記事を書くために来たんだろ?」
 鈴を転がすような笑い声に、さらに麻衣子は胸に痛みを受けて眉間を寄せてしまう。
「わたしも部下に任せてるから大丈夫。ねえ、1時間ぐらいなら時間取れるんでしょ? これからふたりで行かない? 上の部屋へ。久しぶりに駿一に……抱かれたいな」
 その言葉に、麻衣子は息を呑んだ。
 
 ふたりは以前付き合っていた? そして、今もなお関係を続けようとし誘ってる!?
 
 ショックを受ける麻衣子に、さらに彼女の言葉で追い討ちをかけられる。
「大人の関係を随分楽しんできたわたしたちなんだから……ねえ、いいでしょう?」
「みゆきは、俺に抱かれたいのか?」
「ええ、駿一に抱かれたい。以前のように、激しく、強く……何もかも忘れるぐらいの快感をわたしに与えてよ」
 麻衣子の顔から、血の気がどんどん引いていく。
 まだ麻衣子の知らない快感を、理崎はあの女性に与えるのかと思うと、胸を焦がす熱いものが湧いてくる。
 燃える、たぎる、身を焼き尽くす。
 その時、女性の甘く情熱のこもった吐息が耳に届いた。
 
 キスしてる!
 
 動揺をしてしまい、麻衣子は躯を震わせた。
 その途端、手に持っていたピンヒールが壁にコツンとぶつかり音を立てる。
「……だ、誰? そこに誰かいるの!?」
 女性の声にハッと我に返ると、麻衣子はその場から逃げるように走り出した。
 傷のせいで足の裏がじんじんし、熱くなっていく。しかも胸の奥にある燻った火がどんどん燃え上がり、顔から火が出そうなほどだった。
 麻衣子は泣きそうになりながらも前を向き、必死に走る。
 胸にあった、熱くなったり冷えたりするこの気持ち。それがなんなのか、やっとわかった。
 駿一を目にするたび胸に焦げる熱い疼き、麻衣子を藍原に押し付けようとした時に湧いた苛立ち、そして彼が最後まで抱いてくれないたびに心に吹いた隙間風。
 
 ああ、彼に恋してる!
 
 今まで何度もくすぶっては打ち消してきた、あの感情の答えがやっとわかったのに、麻衣子は胸が苦しくてたまらなかった。
 彼とは、あと4ヶ月しかいられない……
 それがわかっていても、麻衣子はただひたすら痛む足と心を引きずって走っていた。

2014/03/24
2013/08/29〜2014/01/31迄、SURPRISE BOXにて公開
※続きは《SURPRISE BOX》で公開中。《ABOUT》参照下さいませ※
  

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