『ミラー・シルエット 〜それぞれのツメ跡』【3】

「今日は、いつもと違って大掛かりな会見なんですね」
 ホテルの会場に入るなり、麻衣子はキョロキョロと周囲を見回し、隣に立つ藍原に声をかけた。
「ああ。メディア向けとは言っても、今回の商業施設を兼ねたタワーマンションは水嶋グループとしても大きな事業だからね。俺は会場に不備はないか見てくるから、楓さんは受付を見てきてくれるかな」
「はい、わかりました」
 急ぎ足で会場を回り、設営スタッフに声をかける藍原を見てから、麻衣子は会場の外へ出た。
 メディアチームに配属されてから、今までいろいろな会見会場に出向いたが、それぞれが仕事に責任を持って携わっているので、これといった問題は起きない。
 それでも、記者会見を担当するメディアチームの一員として、麻衣子は藍原に言われた受付に近寄る。
「あと10分もすれば開場になりますが、問題はありませんか?」
 行く先々で顔を合わすようになって顔見知りとなった、営業課の北見に声をかけた。
「楓さん、こちら問題なしですよ」
 北見は麻衣子より2年先輩にあたるが、同性ということもあり、麻衣子は彼女が受付を担当する時は必ず声をかけていた。
 テーブルには、既に記者会見に足を運んでくれる各メディアに渡すネームタグと書類が並べられている。
 今すぐに開場できそうなほど、準備万端だ。
 もし会場の準備が整っているなら、少し早めに開場しても問題ないだろう。
 麻衣子は話が終わったら藍原のところへ行き、話をしてみようと思いながら、北見に笑顔で頷いた。
「それなら良かったです。今日は珍しくうちの課長も来るらしいので――」
 そこまで言った時、ホテルの絨毯の上をドタバタと走る騒がしい音が耳に届いた。
 麻衣子も北見も、自然と意識をそちらへ向ける。
 血相を変えた男性が周囲には目も暮れず、受付に駆け寄ってきた。そして、乱暴にテーブルに手を置いた。
「き、北見……さん! た、大変です!」
「何、どうしたの、梶田くん?」
 梶田と呼ばれる男性は北見の部下で、彼女が出向く場所には必ず彼がいた。
 それで麻衣子も梶田を見知っていたが、ここまで顔を真っ青にさせるのを見たのは初めてだった。
 
 何か、不測の事態が起こった!
 
 麻衣子は血の気が引くのを覚えながら、じっと梶田の表情を凝視した。
 梶田は肩で息をしながら苦しそうに顔を歪めているが、少し話せるぐらいにまで呼吸が落ち着いてくると、北見に顔を寄せる。
「建設課に頼まれていた防火壁と避難場所解放についての資料、別ファイルにして欲しいって言われていたじゃないですか。要望を受けたあと、すぐに資料を作成したアレです」
「ええ、わかってる。30分前に、資料を持った社員が出発したって連絡が入ったから。もうそろそろホテルに着くころだと思うけど」
 梶田は激しく頭を振り、血走った目で北見の二の腕を掴む。
 部下が上司の腕に、しかも男性が女性の腕にいきなり触れたのを見て、麻衣子はドキッとした。
 まるで自分が触れられた錯覚に陥り、思わず我が身を抱く。
 梶田の息遣い、スーツに皺が寄るほどの力、そして北見にだけに向けられた眼差しが、麻衣子の暗い過去に刺激を与えてきたからだ。
 
 しっかりしなさい! 今、あの時のことを思い出しても仕方ないのに!
 
 ぞくぞくする震えに呼応したように、鼓動の速さがどんどん増す。
 それでも麻衣子は自分を奮い立たせ、徐々に集まり始めたメディア関係者をチラッと見た。続いて、視線を腕時計に落とす。
 開場時間まであと5分。
 このままではダメだと思い、麻衣子は北見を見つめたままの梶田に目を向けた。
「梶田さん、今何が起こってるんですか? きちんと説明してください。話を聞いた上で、メディアチームに報告しなければなりませんから」
 そこにいる麻衣子を見た梶田は、震えながら頷いた。
「今、北見にも話しましたが、確かに資料を持ったうちの新人がこちらのホテルへ向かっていました。でも乗っていたタクシーが事故に遭い、彼女……救急車で運ばれたらしいんです」
「なんですって!?」
 北見は大声を出すが、慌ててその口を手で押さえて恐縮しながらキョロキョロと周囲を見回してから、視線を梶田に戻す。
「そんな……! 今回の防火壁と避難場所提供の件は、さらに商業施設の安全性をアピールする、大事な場でもあるのよ。もちろん、救急車で運ばれた後輩も心配よ! だけど……ああ、どうしよう!」
 北見がパニックに陥る。そんな彼女の気持ちがわからないでもなかった。
 仕事の重要性をわかっている以上、失敗は許されない。でも、後輩も心配でならない。こんな板ばさみな状態では、いくら有能な北見でも正しい判断をするのは難しいだろう。
 それでも麻衣子は、北見を睨むように彼女の顔を覗き込む。
「北見さん、しっかりしてください! あなたがおろおろしてしまったら、梶田さんも回る頭が回らなくなってしまいます」
 麻衣子はそう言いながらも、初めて緊急事態に出くわしたことで、自分がパニックに陥りそうだった。それでも、今目の前で生じたことに意識を集中する。
 まず一番にやるべきことは何か。それはわかっている。
 すぐさま藍原に報告すること。
 でも、会場に入って藍原を探し出し、彼に最初から説明している時間はない。
 早鐘を打つ鼓動を落ち着かせるように何度か深呼吸してから、麻衣子は梶田を見た。
「梶田さん、事故の知らせはどこから入ったんですか?」
「搬送された先の病院からです。彼女も大事な仕事だとわかっていて、それで咄嗟に携帯を渡して俺に電話してくれと言ったそうです」
「つまり、彼女は大丈夫なのね?」
 北見が梶田に詰め寄り、彼は頷いた。
「病院からもらった電話では、命に別状はないということでした」
 ホッと胸を撫で下ろす北見を見てから、麻衣子は考えるように腕を組んだ。
 ファイルが入った荷物はいったいどうなったのだろう。
 警察が保管しているか、もしくはその女性の荷物として病院へ運ばれているのか、そのどちらかしか考えられない。
 その時、急に梶田の携帯が鳴った。
 すみませんと麻衣子たちに断りを入れて、梶田は携帯を手にした。
「非通知……いったい誰だろう? ……はい、もしもし。……えっ、警察!? あ、はい、そうです。彼女が連絡するように言ったのは私、梶田です」
 梶田の瞳孔が開き、携帯を持つ手が震えている。
 このあと、彼の口から説明を訊くよりも、麻衣子が直接警察と話をした方が早いかもしれない。
 話を遮るのはどうかと思ったが、麻衣子は梶田の袖に触れようとして一瞬躊躇する。

 これは仕事。これば仕事だから男性に触れるのは誘惑じゃない……

 自分に言い聞かせてから、梶田の意識をこちらへ向けるために、麻衣子は梶田の袖を引っ張った。

2014/02/01
2013/08/29〜2014/01/31迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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