『ミラー・シルエット 〜それぞれのツメ跡』【2】

「いえ、大丈夫ですから」
 手を差し出す藍原を断るのに、彼はしっかり麻衣子の手を掴んで立つのを助ける。
「言ったでしょ。楓さんは我らメディアチームの華だって。助けるのも俺の務めだから」
「すみません、ありがとうございます」
 打った尻を手で撫でて痛みの度合いを確かめたいが、藍原の前でそんなことできるはずもなく、ただパンティストッキングに伝線がないかだけ確かめようと、スカートの裾をめくった。
 このあと十五時から、近くのホテルでメディア向けの発表があり、麻衣子も藍原と共に資料を持って行くからだ。
 もし伝線でもしていたら、すぐにコンビニエンスストアへ走って新しいのを買わなければならない。
「ちょ、ちょっと、楓さん!」
 急に彼の手が伸びて、スカートの裾を上げる麻衣子の手首をがっちり掴む。
「その……太ももが見えるまで裾を上げるのは反則ですよ」
 頬骨の高い位置をほんのり染め、恥ずかしそうに俯く藍原を見て、麻衣子は慌ててスカートから手を離した。
「ご、ごめんなさい! その……わたし、そんなつもりじゃ」
「わかってます。俺を挑発するためにしたんじゃないってことぐらいは。だから、気にしないでください」
 
 挑発? 麻衣子が……藍原を!?
 
「いや、あの! ……これはただ伝線していないのか確認しただけなので、本当に他意はないです!」
「うん。それはわかってるから……」
 ふたりは頬を染めながら、顔を合わせられない恥ずかしさに俯く。
 その姿が、広報部メディア課全員の目に入ってるとは思わず、麻衣子と藍原はお互いに頬を染め合いながら、その場で立ち尽くしていた。
 
「……うーん、ちょっといいか?」
 突然響いた、麻衣子の躯の芯を揺する声。
 麻衣子はハッと我に返り、すぐに面を上げた。藍原も麻衣子から手を離して、背筋をピンと伸ばす。
「理崎課長!」
「このあと十五時から始まる記者会見、その資料を見せてくれるか。俺も会場に足を向けるから」
「は、はい! すぐにコピーしてきます」
 藍原は自分のデスクに置いてある資料を手にし、部屋の隅にあるコピー機のところへ向かおうとする。
 コピーは下っ端の麻衣子がすることなのに、何を理崎の傍でボーッとしているのだろう。
 麻衣子は慌てて彼の手を掴んだ。
「わたしが行ってきます!」
「いや、いいよ。俺が行く。楓さん、お尻が痛いでしょ?」
 藍原の笑顔を見る限り、悪気がないのはわかってる。
 でもそれを理崎の前で言われた途端羞恥が込み上げ、麻衣子の躯は燃えるように熱くなった。
 
「……だいぶ仲良くなったみたいだな」
 
 寂しげに、それでいてホッとしたような安堵を漂わせる理崎の声音に、麻衣子の羞恥はどこへやら。
 藍原の後ろ姿に向けていた視線を、理崎へと移す。
「楓のような女には、ああいうタイプが一番いい」
「それ、……どういう、意味ですか?」
 理崎の言葉が気に食わない。
 やっかいものの麻衣子を、まるで自分以外の男に押し付けたいと言わんばかりの態度に腹が立つ。
 なのに、同時に空しさも込み上げてきて泣きたい衝動に駆られた。
 でもそこはぐっと堪え、奥歯を噛みしめながら理崎に問う目を向けると、麻衣子の視線に気付いた彼は何でもないことのように肩をすくめる。
「藍原の仕事に取り組む姿勢は、俺の目から見てもとても好ましい。それに、あの外見で女にガツガツしていないところも魅力のひとつだ。楓よりも年下だが、若いからこそひたむきな部分も見えるし……男が苦手な楓にはぴったりだろ? ああいう男と付き合えば、楓も……」
 いきなり鈍器で頭をガツンと殴られたような衝撃を受け、麻衣子は顔を青ざめた。
 
 理崎の言っていることは、何? 楓にぴったりって……どういう意味!?
 
「か、課長!」
 わたしとの関係を清算するつもりですか! だから、わたしを藍原さんの下に置き、自分は離れようとしているんですか! ――そう訊ねようとした時、運良く藍原が走ってふたりの元へ戻ってきた。
 麻衣子は唇を強く引き結び、出かかった言葉を必死に飲み込む。
「お待たせしました! こちらがその資料になります。建設課の方からこの資料で了承を得ていますが、もしかしたらマンションの2階から3階に入る施設設備に関して質問が入るかもしれません」
「うん、まあ……それは専門知識を持つ建設課と営業課に任せよう。ありがとう藍原」
「いえ」
「……この調子で、楓にいろいろ仕事を教えながら彼女を支えてやってくれ」
「は、はい! 任してください」
 満面の笑みを浮かべる藍原、安心しきったように頷く理崎。
 ふたりの傍らに立つ麻衣子は、込み上げる悔しさから握りこぶしを強く作り、スカートの襞にそれを隠す。
 こちらには目も暮れず、課長室へ向かう理崎の後ろ姿を麻衣子は切なげな目で追い求める。
 でも彼は一度も振り返らず、課長室へ消えた。
 麻衣子の胸に空洞ができ、そこに冷たい隙間風が通り抜けていく。
 怖かった。
 このまま理崎に楓と呼ばれ続け、藍原に自分を押し付けられるかもしれない……そう思っただけで、躯中が悲鳴を上げる。
 
 いや、簡単にその手を離さないで。最後まで責任を持ってよ!
 
 そこでハッと息を呑む。
 最後の責任とは、いったいどこまで? 理崎が大阪支社を離れる8月までということ? それとも、麻衣子が処女を捨てるその日まで?
 
 わからない、わからない!
 
 理崎と離れるまであと4ヶ月ほどしかないが、麻衣子の望む最後≠ニはいったい何を指しているのだろうか。
 自分で自分の気持ちがわからず俯いた時、藍原がいきなり麻衣子の肩に触れる。
「そろそろホテルへ移動しようか。設営スタッフもいるけど、その人たちだけに任せるのは良くないからね。メディアチームは、人任せにしないで準備から関わる。これ鉄則だから」
「は、はい。それじゃ、準備します」
 デスクの引き出しからバッグを取り出し、大事な資料をそこに入れて忘れ物がないかチェックする。
 そんなことをしながら、麻衣子と同じように準備を始める藍原を横目で盗み見した。
 男性から触れられても怖さが先に立たなくなったことに、麻衣子は理崎に感謝するべきだろう。
 彼が麻衣子に優しく触れ、男性は誰しも怖い人物ではないとずっとこの身に教えてくれたからだ。
 でも男性に慣れれば慣れるほど理崎が遠くなるように感じ、麻衣子は寂しさから静かにうな垂れた。
 
 この気持ちが何を意味するのか早く見極めなければ。
 そうでないと、……理崎を失ってしまう!
 
 麻衣子は、藍原に「行くぞ」と言われると乱暴にバッグを持ち、ホワイトボードに外出先を明記すると広報課から廊下へ飛び出した。

2013/09/01
2012/12/12〜2013/08/28迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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