『偽りのミラーに乾杯を』【5】

「俺が、女の悦びを楓に教えてやる。トラウマとなった嫌な記憶を忘れるぐらい、男女の間で生まれる愛がどれほど素晴らしいものなのかを」
 
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 麻衣子の頭はこんがらがってきた。理崎の言っている意味がわかるが、どうしてそんな話をするのかわからない。
「最後まで聞くんだ。会社では普通の上司と部下。だが、一歩外へ出れば俺たちは大人の付き合いをする。楓が今まで体験すらしてこなかったデートとセックスを提供しよう」
 理崎の生々しい言葉に、麻衣子の頬は真っ赤になった。
「ま、待って……」
「最後まで聞けと言っただろ? ……メディアチームへの正式な異動は来年の4月になる。男を知ったことで恐怖心を抱かないようになれば、メディアチームへ異動となっても楓はやっていけるだろう」
 そ、それって……メディアチームへ異動させてくれるということだろうか? ……課長との大人のお付き合いをすれば?
 屈辱的な申し出たということは、十分に理解していた。本当なら、いつものように鋭い言葉を投げつけて、この話を終わらせようとするだろう。
 でも、麻衣子の頬に触れた理崎の指が、自分の肌を撫でるのかと思っただけで、今までに感じたことのない想いが胸の中で渦巻き始める。
 それは、麻衣子が嫌うものではなかった。寧ろ、期待から躯が震えてくる心地良さに、うっとりしてしまいそうになる。
「楓に触れている間は、絶対に他の女性には触れないから安心してほしい。病気持ちでもないから、その点も心配しないでくれ。だが、今からしようとしているこの関係は来年の八月までだ」
「来年?」
「そうだ。来年、俺は名古屋支社に転勤になる。これはヘッドハンティングされた時に言われたこと。俺はそれを受けた。来年の今ごろはもう大阪にはいない。楓にとっては、いい知らせだろ?」
「いい知らせ?」
 鸚鵡返しをしていることに気付かないまま、麻衣子は理崎の言葉を必死に理解しようとしていた。
「そうだ。楓の秘密を知っている男はいなくなる。男性恐怖症を克服できれば、メディアチームでの仕事はやりやすくなり、本当に好きな男性と巡り会えた時は臆することなく告白できる。楓に取っていい話だと思うが?」
「では……理崎さんにとってのメリットは何ですか? 部下の男性恐怖症を治す手助けだなんて……こんな面倒くさいことをする意味がわかりません」
 麻衣子は力なく頭を振った。
「俺にとってもいい話だ。言っただろう? ここだけの話にして欲しいんだが、俺は来年の今ごろはもうここにはいない。だが、その間に受ける……女性たちのガツガツした誘いをいちいち断るのは面倒なんだ。楓だと名乗りはしないが、そういう相手がいると知れば落ち着くだろう」
「つまり、わたしにギブ・アンド・テイクを持ちかけているんですね?」
 理崎が頷く。そこには、全くからかうような表情は見られなかった。
 期間限定のお付き合い。麻衣子は理崎からセックスを教えてもらい、彼は女性の存在をちらつかせることで、近寄る女性たちを追い払う。
 自分の裸を理崎に見せることになるのだから、もっと慎重にならなければならない。なのに、麻衣子は考えもせず頷いてた。
「わかりました。わたしと……約1年よろしくお願いします」
 まさかこんなに早く承諾されるとは思っていなかったのだろう。理崎は目を大きく見開き、麻衣子に顔を近づけて彼女の瞳を覗き込んできた。
「わかっているのか? 楓は俺に躯を開くということなんだぞ? そんな大事なことを……この場で決めてしまうのか!?」
 今更何を言っているのだろう? この話を持ち出したのは、そもそも理崎の方からなのに。
「えぇ。わたしはこのトラウマから逃れようと思っても逃れられないんです。もし、このお付き合いで……一年のお付き合いで新たな一歩に進めるのなら、わたしはそれに賭けてみたい」
「本気、なんだな?」
 真剣な眼差しを向ける理崎に対して、麻衣子も神妙に頷いた。
 
「では……これが契約の証だ」
 
 そう言うと、理崎は麻衣子の首に手を触れてきた。
「えっ?」
 そのまま彼の方に引き寄せられると、理崎は麻衣子の唇を奪っていた。
 突然のことにビックリしたが、麻衣子は彼を拒絶しようとはしなかった。
 ずっと夢見ていたキスをしている……
 相手は上司だというのに、麻衣子はゆっくり瞼を閉じて理崎のキスを受け入れていた。彼の唇が優しく動くだけで胸が熱くなり、乳房が張ってくるのがわかった。
 ラブストーリーの映画を観ているだけで起こる症状と、全く同じだった。いや、それ以上に胸がドキドキと高鳴っている。
 麻衣子から唇を離した瞬間、理崎が激しく息を吸う。麻衣子も同じように息を吸って、そっと瞼を押し開いた。
 理崎が麻衣子の唇を指で撫でるだけで、お尻から背筋に向かって妙にゾクゾクした疼きが走った。
「楓を……恋人のように扱うから安心してくれ」
「恋人の……ように?」
「あぁ」
 静かに頷く理崎を、麻衣子は覗き込むようにして彼の目を見つめ返した。
 
 
 この関係は愛し愛されているからではない。偽りの関係だということはわかっている。
 わかっているのに、理崎の言葉は鋭い棘となって麻衣子の心臓に見事命中した。
 その棘が何を意味するのか。
 これからどうなっていくのかわからないまま、ふたりの関係は今この瞬間からスタートすることになった。

2011/07/24
2010/05/05〜2011/05/28迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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