『偽りのミラーに乾杯を』【4】

「そいつが、わたしにいたずらをしてきた。毎日、毎日……。理崎さんも、わたしが悪いんだって思うんでしょうね」
「……イヤ、そうは思っていないが」
 そう言いながらも、理崎は男性側の立場に立っている。それも当然だろう。彼は男性であって、女性の心を理解するなんてできないのだから。
 でも、これならわかってくれるだろう。
「通学時間帯も遅らせたり早めたり、下ろしていた長い髪も後ろで一つにまとめたりもしました。コンタクトをやめて眼鏡に変え、俯いて歩き、彼の目に留まらないように努力をしたんです。でも、ダメでした。どんなに変装しても……その男はわたしを見つけるんです。その痴漢は、わたしが誘っているとまで言い出して……」
「そういう風に外見を変えていくことが、その男の気持ちを煽ったとは思わないのか?」
 理崎の言葉に、麻衣子は傷心を隠せないまま彼に顔を近づけた。
「そういうことも何ひとつわからない少女ですよ? わたしは、その男の目から逃れるだけで精一杯でした。そんなわたしを嘲笑って、彼は触れてきた……。まだ誰にも触れられたことのない場所に、初めて触られたんですよ!」
 手に持っていたカクテルを、まるでジュースのように最後まで一気に飲み干す。
「もし、その痴漢が……おじさんとかだったらここまで恐怖を覚えなかったかもしれない。だけど、彼は普通の大学生風の男だった。女性にモテそうな容姿で、毎日わたしを追ってまで痴漢をするような人には見えなかった」
 テーブルにグラスを置くと、麻衣子は理崎に視線を向けた。
「これでわかりました? わたしを傷つけた男性が、わたしを男性恐怖症にさせたんです。痴漢に遭遇したのはわたしだけではない。大人になって、卑怯な輩が頻繁に行っているとわかるようになっても、わたしの心は開かないんです。誘っているのはお前だ≠ニ言われないよう、ずっと壁を作っているんです」
「それでいいと思っているのか? 理由がわかっているんだから、それを乗り越えようとは思わないのか?」
 麻衣子は、理崎に向かって冷笑を浮かべた。
「知らないんですか? 簡単に乗り越えられるものは、トラウマとは言わないんですよ。思春期に受けた傷が、どれほどわたしの心に巣くっていると思うんです? まるで、ヘドロのようにべったりと張りついて離れない。でも、わたしは後ろを振り返りませんでした。女子大へ進学しましたけど、こうやって男性もいる職場で働いています。男性皆が、あの痴漢のような人ではないとわかっていますから。それでも……」
 小さくため息を吐くと、そっと膝の上に置いていた自分の手を見下ろした。
「男性恐怖症は治りません。他の女性のように男性と付き合うことも考えたけど、肌に触れられると思っただけで拒否反応が出てしまうんです。これがわたしです。理崎さんが考えるメディアチームにこういう女は必要ないと思うのであれば、もうわたしに関わらないで下さい。希望は持ちませんから。だって、この性格は直せそうもないですから……」
 手の甲に涙が落ちる。
 泣き上戸ではないのに……。課長の前でこんなに感情的になるなんて、やっぱりお酒のせいだろうか?
 
「つまり……楓は……未だバージン、なのか?」
 
 あからさまな言葉に、麻衣子の頬は上気した。
 嘘を言えたらどんなにいいだろう。二十九歳の女が未だにバージンだなんて知ったら、理崎はきっと呆れるに違いない。
 確認しようとしたワケではなかったが、麻衣子はそっと面を上げた。すると、こちらを真剣な表情で見つめる理崎の目とぶつかった。
 こんな風に真摯な目を向けてくれる人に、どうして嘘がつけるだろうか?
「ご存じのように、わたしには浮いた話は全くありません。十五歳のころから二十九歳の今も」
 肩を竦めて、何でもないという振りを見せる。
「わたしを……愛していると言ってくれた人もいませんし。もし、わたしがそういう気持ちを持っても、相手の方が逃げ出すでしょう?」
 理崎にもわかるように、自分の服装を示す。
「大学時代にも、こんな服を着たことはありませんでしたから。今までもずっと」
 そこで、七月か八月に一度だけ肌を露出するワンピースを着たことを思い出した。部下の如月篤史に見られた時のことを……
 でも、あんなバカな真似をしたと理崎に告げる必要はない。
「ついさっき、男に触れられるだけで拒否反応が出ると言ったな?」
「はい……」
「俺が触れた時はどうだった?」
「えっ?」
「まず、俺の上着を肩にかけた時。そして、楓の涙を俺が拭ってあげた時だ」
 麻衣子の脳裏に、すぐその時のことが浮かぶ。
 そういえば、スーツを借りた時は恥ずかしいという気持ちを抱いたことしか覚えていない。頬を触れられた時は、彼に対して全く拒絶反応は起こらなかった。
 だから、理崎になら話せると思って、過去のトラウマを全て話したのだ。
「……いいえ。何もありませんでした」
 寧ろ、女として感じたと言ってもいい。
 麻衣子はそっと視線を上げて、理崎を見た。彼は、つい先程と全く変わらないまま彼女を真っすぐに見つめる。
「理崎さんに触れられても……拒絶反応は出ませんでした」
 そこまで言うつもりはなかったのに、理崎の目を見ていたら、さらに言葉を追加していた。
「そうか……。出なかった、か……」
 理崎はブランデーのグラスを強く握ると、それを一気に飲み干した。
 しばらくそのグラスに見入っていたが、彼はテーブルにそれを置き、すぐに麻衣子へと視線を向ける。
 
「楓の事情を知らずに、変身しろと言った俺にも責任がある。だから、俺が楓を身も心も女にしてやろう」
 
「えっ?」
 女にするって? わたしを? どうやって?――問うように、麻衣子は目を見開いたまま彼を見つめた。

2011/07/18
2010/05/05〜2011/05/28迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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