『偽りのミラーに乾杯を』【3】

 理崎は何かを探るように目を細めて、麻衣子の目の奥を覗き込んでくる。
「初めてお前を見た時、女を捨てたヤツだと思った。だが、服で隠れたその下のものは、純粋に女としての喜びを楽しんでいるように思えた」
 ブランデーに手を伸ばした理崎は、それを一口飲む。麻衣子も景気づけにカクテルを飲みたかったが、妙に手が震えてグラスを持てそうになかった。
「会社でのみ仮面を被っているのかと思えば、楓は男は必要ないと……結婚はしないと言う。社内でも浮いた話は聞かないし。俺は楓が男に対して、高い壁を作ってると思うようになった。それでは、メディアチームへ異動させることはできない。だから、その壁を打ち破れるのか試してみた。結果、楓は見事期待どおりに殻を脱ぎ捨ててくれた」
「では!」
 合格なんですね!――と問うとした麻衣子に、理崎は肩を落として小さく頭を振った。
「確かに変われと言ったが、俺は外見も内面も女になって欲しかった。だが、楓は外見しか変えなかった、んだな……」
 外見を変えるだけでは、メディアチームへの異動はできないということ?
 それなら絶対無理だ。三十歳目前で内面を変えるなんて……そんなことは絶対にできない!
 カクテルグラスを持つと中身を全部飲み干し、空っぽになったグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「わたしは……メディアチームへ移りたい一身で、したくもないイメチェンをしたんですよ? これを実行するのに、どんなに勇気がいったのかわかってますか?」
 理崎は軽く手を上げた。その合図を受けて、ボーイが近寄る。
「彼女に同じものを」
「いいえ! キールロワイヤルを」
 麻衣子は自分が飲みたいものを注文した。今は、ピンクレディを片手に甘い気分に浸ってはいられない。シャンパンの炭酸で、気分をすっきりしたかった。
 ボーイが去り、二人だけで話がしやすくなったところで、麻衣子は理崎に視線を向けた。
「女は女らしくですって? フンッ! 男が簡単に言うセリフですね。……そんなの、わたしだってわかってます。でも、わたしをこんな風にしたのは、その男じゃないの!」
 小さく頭を振って、麻衣子は俯いた。
「理崎さんは、水嶋≠ノヘッドハンティングされるぐらい有能。きっと、順風満帆に過ごしてこられたんでしょう? 私生活でも、群がる女性はたくさんいて不自由なんてしてこなかったはずだわ。目の前にいるわたしがそういう女性とは違うから、きっと不思議に思われたんでしょうね、でも」
 麻衣子は面を上げると、理崎を見つめ返した。
 テーブルには、既にキールロワイヤルが入った細長いグラスが置かれていた。いつボーイが来たのかわからなかったが、麻衣子は手で胸を叩き、この気持ちをわかってもらえるように身を乗り出す。
「こういう女性もいるんです。一人で生きていくことに満足している女性もいるんです!」
 今放った言葉に嘘が混じってる……そのことに気付いた麻衣子は、自然と表情を歪めた。
 一人で生きていくことに満足している? わたしが? 嘘ばっかり!――自分に向かって憫笑を浮かべた。
 その気持ちから逃れるように、カクテルをゴクゴクと飲む。シャンパンとカシスリキュールで割ったそのカクテルは喉越しも良く、興奮した麻衣子の気持ちを落ちつかせてくれそうだった。
 でも、いつもよりアルコール度数が高い。酔っぱらってしまうかも……と思ったが、飲まずにはいられなかった。
「楓は、いつごろから……そういうことを考えるようになったんだ? 男を近寄らせないよう、自分の心に壁を作り出した?」
「わ、わたし……」
 あの時のことが頭に過り、声がかすかに震える。
 麻衣子は、過去から逃げるように再びカクテルに口をつけた。
 アルコールが回ってきたのだろうか?  胸からお腹にかけてカーッと熱くなってきた。瞼の上も、ほどよく熱を帯びてきているのがわかる。
「楓は女だ。心は大人になりきれていないが、女らしくなりたいと思っている。ピンクレディを頼み、次はキールロワイヤルを頼んだのも……きっと」
「えぇ、そうです! 素敵な女性に見られたいから。もちろん、その味が意外と好きだったというのもありますけど」
 突然クククッと肩を震わせ、面白くもないのに麻衣子は声を上げて笑った。
 でも意思とは裏腹に涙も込み上げてきて、視界がどんどん霞んでいく。
 どうして泣いているの? 理崎が、麻衣子の壁を取り壊そうとしていると感じるから? そういう風に接してくれる男性と、初めて出会ったから?
「楓?」
 優しく名字を呼ばれて、麻衣子はゆっくり視線を上げた。拍子に、涙が零れて頬を伝い落ちていく。
 理崎が突然手を伸ばしてきた。頬に触れてから、麻衣子が零した涙を親指の腹で拭う。
 初めてのことだった。痴漢に触られて以来、男性に肌を触られても嫌悪を抱かなかったのは……
 彼は、ただ部下を気遣ってくれてるのかも知れないが、その仕草に男性としての強さを感じ取った。
 麻衣子は、初めて男性に守ってもらいたいと思った。堅い鎧を脱ぎ捨てて心の弱さを見せても、理崎なら優しく包み込んでくれるだろうと。
「いい潮時だ。人前で涙を流せることができたんだ。あともう一歩踏み出せば、心の壁も取っ払うことができる。さぁ、俺に話してみろ」
 何故、理崎はここまでして麻衣子の心を開かせようとするのだろう?
 もし、正常に物事を考えられる状態であれば、彼の言葉を一蹴し、強気な態度を見せていたかもしれない。
 だが、麻衣子は相手が上司だというのに、全て打ち明けたい気分になった。全てを話せば、麻衣子の人生が新しい方向へ進むかも知れないと。
 後々仕事がやりにくくなるかも知れない――とは思わず、麻衣子は覚悟を決めると口を開いた。
 
「……全てが楽しくて、幸せだった十五歳の時、いたずらされたんです」
 
「いたずら?」
「えぇ、そうです」
 深刻にならないよう笑みを浮かべようとしたが、麻衣子は顔をくしゃくしゃに歪めていた。
「相手は全く知らない人。彼はわたしに目をつけてから、だんだんエスカレートしました」
「ちょっと待ってくれ……」
 理崎が困惑したように自分の額に手を触れ、何か整理をしようとしているのが手に取るようにわかった。
 だがここまで告げた以上、麻衣子は一気に全てを吐き出したくて堪らなくなり、彼の言葉の上に言葉を重ねた。
「今だからわかるんですけど、男って痴漢に興味があるんですね。何かの記事で読んだことがあります。電車はお触り天国だって。でも、当時のわたしは、そういう行為がまさか電車内で起こっているなんて想像すらしていなかった」
 喉を潤すために、カクテルをゴクゴク飲む。
「男性と付き合ったこともなく、新しい学生生活に胸をときめかせていたわたしは、本当に幸せでした。その痴漢が現われるまでは……。憧れの制服に身を包んだわたしは高校生活を楽しみつつ、素敵な男性に巡り合いたいとさえ思っていた。でも……」
 麻衣子は、遣り切れない気持ちで頭を振った。

2011/06/25
2010/05/05〜2011/05/28迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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