『偽りのミラーに乾杯を』【1】

 見事に変身を遂げた麻衣子だったが、その日は一日中仕事がやりにくかった。普通に仕事をしているだけなのに、メディア課内の男性がチラチラと視線を投げかけてくる。
 さらには、他の課から覗きにくる社員まで。
 わたしは、檻に入れられた動物!?――と口から飛び出してしまいそうな暴言をグッと堪える。
 普段と全く変わらない態度を心掛けながら、麻衣子はスケジュールに目を通し、ピックアップされた資料の検討も始めた。
「楓さん、どうぞ」
 麻衣子の机の上に、コーヒーが置かれた。
 視線を上げると、そこにはメディアチームの藍原あいはらが立っていた。チームが違うのでなかなか話す機会もないが、彼は入社二年後にメディアチームに抜擢された人物。
 その彼が、どうして麻衣子にコーヒーを?
「ありがとう……と言いたいけれど、今日はいったい何? 皆してわたしにコーヒーを持ってきて。いったいそれで何杯目だと思うの?」
 麻衣子は、デスクに置かれたカップを指す。
「すみません! ただ、喉が渇いてるだろうなと思って。じゃ、俺は……これで」
 藍原は、そそくさ自分のチームへ戻って行った。
「もう、いったい何?」
 そんな麻衣子を見て、須永がクスクス笑みを零す。怒りを爆発させたかったが、須永に笑われていると思うとそれ以上文句も言えず、再び手元の仕事に視線を落とした。
 麻衣子が大変身を遂げた今日、他の社員からの接触はあっても理崎からは一切声をかけられることはなかった。
 理崎に上着を渡すことになっているのに。メディアチームへ異動出来るのかどうか、返事が聞ける日でもあるのに。
 退社時刻が迫ってきた頃、麻衣子のパソコンに一通のメールが届いた。
 
十八時、地下駐車場で
 
 相手の名はわからないし、メールアドレスを見ても相手が誰なのかわからない。それでも、麻衣子には相手が理崎だとわかった。
 仮にも今夜会う予定の人だったし、今までの経験からこうやって誘われたことは一度も無いからだ。
 その時だった。
「楓、今夜……一緒に飲まないか?」
 社内報チーム長の柴谷が麻衣子のデスクに手を置いて、目を泳がせながら訊いてくる。
 彼とは麻衣子が入社以来の付き合いだが、こうやって勤務時間外に誘われた事は一度もなかった。
 もしかして、麻衣子が大変身を遂げたから誘ってくるのだろうか?
「今夜は、」
 そこまで言った時、理崎課長の部屋へ続くドアがいきなり開いた。当然、その部屋から出てきたのは理崎本人。彼はドアを閉じてから、自然に室内へ視線を向ける。
 麻衣子と柴谷が、明らかに仕事ではない会話をしていると思ったのか、問いかけるように眉を上げて麻衣子を見つめた。
 だが、すぐに視線を逸らし、メディアチームの方へ歩いていった。
「楓?」
 柴谷に声をかけられて、すぐに意識を彼に向け直す。
「あぁ、今夜ね。ごめんなさい、先約があるの」
「それは、社内の誰かが……既に声をかけてきたというのか!?」
 麻衣子の側にずっと一緒にいたのは自分だ――みたいな言い方に、麻衣子は驚くと同時にクスッと笑みを漏らした。
 服装のせいだろうか? 外見が変わったことで、こんなにも内面が変わるなんて。
「いいえ。わたしが、こんな変身をする二週間前からの約束なんです。もちろん、仕事よ」
「あっ、……そうなんだ。そっか。じゃ、来週は俺と時間を作ってくれないか?」
 麻衣子は問いかけるように、柴谷を見上げる。
 彼は、急に麻衣子との接点を持とうとしている。それがどういう意味なのか、ある程度わかってるつもりだった。
 もし、麻衣子がそういう関係を求めているなら受けてもいいだろう。
 でも、柴谷とは仕事上での付き合いでいたかった。変な感情を持ち込んで、仕事が上手くいかなくなるのはどうしても避けたい。
 だから、麻衣子は頭を振った。
「やめておくわ」
「楓……」
「わたし、柴谷さんとはいい仕事仲間でいたいの」
 この話はこれでおしまい――と告げるように、麻衣子は手元の書類へ視線を向けた。
「楓が首を縦に振るまで、俺は諦めないから」
 麻衣子に断られたことが信じられないのだろう。柴谷はボソッと呟くと自分の席へ戻った。
 仮にも麻衣子の上司にあたるのに、仕事以外の場所で彼の気に障るような事をしたら、どうなるかわからないのだろうか?
 柴谷が直属の上司のままになるのか、それは今夜はっきりする事だが……
 麻衣子は、こちらに背を向けて部下と話し続ける理崎の姿を遠くから眺めていた。
 彼の答えが合格≠セと祈りながら。
 
 
 ―――十八時。
 
 メールに書かれていた時間よりも十分早く地下駐車場に来て、麻衣子はその場にジッと佇んでいた。
 一人で立っている麻衣子を、帰ろうとしている社員たちが横目で見ていく。
 その視線に耐えながら、前だけを真っ直ぐ向いていた。
 それからどれぐらい経ったのだろうか。
 黒色のセダンが麻衣子の前に停まり、助手席のドアが開いた。運転席から手を伸ばして、助手席側のドアを開けた理崎の姿が目に入る。
「乗れ」
 理崎に渡す袋をギュッと握りしめて、麻衣子は無言で助手席に乗り込んだ。シートベルトを締めないうちから、彼が車を発進させる。
 慌ててシートベルトを締めて、大腿まで捲れたスカートの裾を必死に伸ばした。無理だと観念すると、自分のバッグと彼に渡す袋を膝の上に置く。
 そんな麻衣子の態度に、理崎が呆れたように頭を振って吐息を一つ漏らす。
 普段の麻衣子ならそういう些細なことでも気付いていたが、この時は男性と二人っきりの空間にいる……そのことばかりに意識が向けられていたので、理崎の表情を窺う余裕は全くなかった。
 理崎は、一路大阪駅の方へ向かった。道路は帰宅ラッシュと重なって渋滞していたが、約三十分後には大阪駅へ着いた。
 どこへ行くのだろうと思っていたら、彼はホテルが入ってるビルの地下駐車場へ進んで行く。
 ホ、ホ、ホテル〜〜!?
 当然、麻衣子の心臓はばっくんばっくんと高鳴る。
 地下三階に車を停めた理崎は、何も言わずに運転席のドアを開けると外に出た。
 車中で一人固まっていた麻衣子だったが、すぐにシートベルトを外してドアを開ける。彼は、その場でジッと立ってこちらを見ていた。
 麻衣子がしっかりドアを閉めるのを見てから、理崎は手に持った鍵でロックをする。彼女に一言もいわずに踵を返すと、彼はエレベーターホールの方へ歩き始めた。
 もちろん、麻衣子は小走りで彼を追った。
 だが、理崎が踵を返す時に見せたあの表情を、麻衣子は見逃さなかった。
 理崎は眉間に皺を寄せて、口元はヘの字になっていた。さも、麻衣子の全てにガッカリしたというような態度を取っていた。
 今朝、麻衣子を見た時はビックリしたような表情を浮かべ、さらに感心したようにこちらを見たのに、どうして今は違うのだろう?

2011/05/29
2010/05/05〜2011/05/28迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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