『美しいミラーだと信じて…』【2】

―――翌日。
 
 麻衣子は、柱の影に隠れたい思いを表情には出さないようにし、胸を張って社内のロビーを堂々と歩いた。
 周囲から「おい、あのいい女いったい誰だよ、どの課だ?」という声が耳に届く。
 
楓さん、女性なんだからお洒落を楽しまなくっちゃ。男性の視線? そんなの気にしていたらダメです。だって楓さんの人生でしょ? 自分の人生なんだから自分が主役でいかなくっちゃね
 
(そう、わたしの人生よ。わたし自身の事に対して、誰かに文句を言われようとも、そんな事は無視したらいい)
 だが、満員のエレベーターに乗り込むと、いつも以上に躯が硬直してしまった。男性社員の息遣いが妙に生々しく、ふと気を抜けば遠い昔のあの悪夢が蘇ってしまう。
 男性のコロンが鼻につくと、あの日のように、男の腕に抱かれているような錯覚に陥ってしまう。密着していると手が伸びてきて……
(ダメダメ、そんな事を考えたらダメよ!)
 
男性を誘ってるように見えないかって? それはないですよ。わたしを見て下さい。誘ってるように見えます? 男性がそう言うのは、そう思いたいせいじゃないかな? だって女性に目を引かれるっていう事は、その女性が輝いて見えるという事ですもの。自分に自身を持った女性に、男性は目を奪われるものなんです。それを勘違いして誘ってるなんていうんですよね〜
 
(わたしは誘ってなんかいない。他の女性が着るのと同じような服を着ているだけよ)
 その辺にいる女性社員と何ら変わりはない。いつも愛用していた茶系のスーツからカジュアルなものに変わっただけ。
 麻衣子が所属している課の階に停まると、麻衣子はエレベーターから抜け出した。
 膝頭が見えるスカートは、学生服以来。歩く度、大腿まで風が入り込むのが何だか気持ち悪いが、麻衣子は須永に言われたとおりいつものように胸を張って、前を向いて歩いた。
 
あぁ! 楓さんったら、服装はいつもビジネススーツでガードが固いと思われているのに……下着はとっても挑発的ですね。あっ、別に非難しているんじゃないんですよ! 楓さんの女っぽさを見られて嬉しいなぁ〜って思って。……きっと、課の人たち驚きますよ。楓さんって、こんなに美人だったんだってね
 
 自分が美人……だとは思わない。だが、須永と一緒に美容院へ行ったり眼科へ行ったり、安くて良い品が売っているファッションビルに連れていってもらえただけで、少し心に余裕が出来たように思える。
(今のこの格好も、ひとりでなら絶対買わないようなものばかりだったけど、須永の説得力のある言葉がわたしの背を押し、買う気にさせたのよね)
 昨日、須永に相談したソファの所まで来ると、ピタッと足を止めて服を撫で付けた。
 V字に開いた胸元は谷間が見えそうだったが、ネックレスがそこへ視線がいかないようになっている。袖はオーガンジー風で肌を撫でるようにふんわりしている。細いウエストを強調しないよう太い幅のベルトを腰で支えるようにしているが、その下へと続くスカートは須永が着ていたようなマーメイド風のスカートだった。ピアスは、輪が3連になっていて、意外と若々しく見える。
 大人っぽく、艶っぽく、そして女らしい……容姿。理崎課長の望む女になれただろうか?
 麻衣子は、勢い良く課のドアを開けた。
「おはようございます」
「あぁ、おは……よう」
 社内報チーム長の柴谷がにこやかに挨拶を返してくれたと思ったら、途中でその表情が驚きに変わっていった。
 まるでスローモーションを見ているように、表情の変化が見て取れる。
 周囲にいる他の社員たちも柴谷と同様に、驚きを隠せない表情でこちらを見ている。椅子から転げ落ちた男性社員までもいた。
 ガッチガチに緊張していた麻衣子だったが、見た事もない社員たちの驚愕した姿を見て、思わず口元を緩めてプッと噴出してしまった。
「皆さん、しっかりして! 楓麻衣子も、女なんですから」
 眼鏡を止めてコンタクトにした麻衣子の素顔は、化粧を施してさらに陶器のように輝いていた。二重まぶたにしっかり引いたアイラインが、さらに目を大きくさせている。ひっ詰めていた髪はデジタルパーマにし、頬にかかる部分だけ無造作に後ろで丸めていた。それがまた柔らかい印象を出していた。
 男性社員たちが驚くのも無理はなかった、麻衣子の姿は、まるで天と地ほど印象が違ったのだから。
「えっ、えぇぇぇ!? 楓、さん? あれ? どこかで、俺会った事が……」
 そう言われて横を向くと、如月篤史がこちらを指しながら百面相をしている。驚き、戸惑いが、麻衣子にも伝わってきた。
「あぁぁ! もしかして……あの、時の女の人!?」
 篤史の目が大きく見開いたのを機に、麻衣子は指を唇にあててシーッと言った。
「あの時の事は、内緒よ。そうそう、わたしを助けてくれてありがとね」
「あっ、あっ……」
 自分の失態に気付いた篤史は、顔を真っ赤にさせて何か言おうと手を上げては下げたりと落ちつかない。
 だが、麻衣子に言われたように、口だけはしっかり閉じていた。
 
 ―――その時!
 
 課の視線が、麻衣子からその後方へと移る。
「おはようございます、理崎課長」
 それぞれの社員が課長へ挨拶をしていた。
 麻衣子は一瞬躯を硬直させたが、須永に言われた事を思い出してゆっくり振り返った。
「おはようございます、理崎課長」
(これで、どう? わたし、あなたの言う女≠ノなってきたわよ!)
 挑戦するような態度を向けて、理崎を睨んだ。そのつもりだった。
 だが、あまりにも理崎の驚いた表情に、麻衣子は先程と同じように笑みを浮かべてしまった。
(やったわ! 理崎課長の意識をこちらに向けさせる事に成功したわ!)
 麻衣子は、勝利の美酒に酔っても良かった。
 だが、その笑みはすぐに凍りついてしまった。理崎はじっくりと麻衣子の服装を舐めるように眺め、最後にはしっかりと麻衣子に視線を合わしたのだ。
 その瞬間、麻衣子の胸に今まで感じた事のないような熱いものが渦巻き始める。
 理崎が、初めて麻衣子を足蹴にするのではなく、直視してきたからだろうか? それとも、彼の瞳に宿る炎のようなものを垣間見てしまったからだろうか?
 ふたりは社員のいる前で、しばらくの間探り合うようにジッと見つめ合っていたのだった。

2010/05/06
2009/06/29〜2010/05/05迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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