『塗りつぶされた、黒いミラー』【1】

「九月の社内報のメインはどうします?」
 
 麻衣子にそう話しかけてきたのは、部下の一人だった。
「そうね……」
 支社では、一月・四月・九月・十二月と社内報が発行される。
 特別版として時々発行される事もあるが、今のところコレといった重大な事もないので、七月の今は九月分に向けて記事を集めている所だった。
 これも全て水嶋グループの内情を全社員に熟知してもらう為、大切な仕事の一貫だった。
「九月は、特別異動があったりするから……その辺りを人事で確認する必要はあるわね」
 麻衣子は、九月≠ニ言った途端ある事が思い浮かび、チラッと如月篤史の方へ視線を向けた。
 確か、彼のお姉さん……その頃出産じゃなかったかしら?
 社長の初孫となれば、それ一つだけでも大きな記事になる。そんな事を考えながら、意識を如月へと向けると、彼は肘を付きながら書類とにらめっこをしていた。
 その横顔を見ると、あの日お洒落をしていた麻衣子を助けてくれた日の事を思い出す。
 こちらが誰なのか……しっかり人の顔をマジマジ見ておきながら、全く気付く事がなかった彼。
 そして、唇を突き出す仕草を見ていると、彼と後輩たちのキスシーンが目に浮かぶ。まるで食べてしまいそうな程唇を動かす後輩の女性に対し、彼は全くの受け身で……でも、全く嫌がってはおらず、その甘さを味わうかのように顎が動いていた。
 考えてもいなかった欲望が、麻衣子を襲ってくる。
(やめなさい! 麻衣子。如月くんはただの後輩、新人よ)
 彼が、お洒落をしたわたしに気付かなかった……という事実を受入れなさい!
 
「……さん? 楓さん?」
 麻衣子はハッと我に返り、部下の一人に視線を向けた。
「えっと……何かしら?」
 平常心を保ってるように見えながらも、ブラウスの下に隠れている女らしくセクシーな下着の下では、乳首が痛い程硬くなっている。
 麻衣子は、その事実に当惑を覚えた。
「人事に問い合わせの確認と、あと……メディアの方の確認、あとは店舗への伺いでいいですか?」
「えっ、そうね。……えぇ、それでいいわ」
「了解っす」
 彼は、軽く会釈すると自分の席へ戻った。今から書類を興し、振り分け作業に入るだろう。
(わたしは……会社の近くに出来た、評判のいいフラワーアレンジメント・ショップへ行かなければ)
 少し下がった黒縁の眼鏡をグィと押し上げ、さらに乱れた後れ毛をシニョンの中に入れ込むように撫でると、書類が入った封筒とバッグを手に取った。
「打ち合わせで外に出てきます」
 誰かに告げるでもなくそう言うと、入社四年目の部下・須長すながが急いで麻衣子の後を追いかけた。
 彼女は、新入社員とは違い、麻衣子が仕事でミスしないように一生懸命仕事をしている事を知っている。
 その為、無駄口は叩かず、ただ麻衣子から仕事の術を学び取ろうと頑張っていた。頑張っているからといって、麻衣子のように仕事一筋という事ではない。彼女にはきちんと恋人がおり、人生を謳歌している。
 その点だけが、麻衣子と違っていた。
 
 * * *
 
 水嶋グループ大阪支社の広報部に勤めて八年目になる、社内報チーム主任補佐の楓麻衣子は、ただひたすら仕事だけに打ち込んできた。同期とは遊びに行ったりするが、恋人というものは一切作らず過ごしてきた。
 
 男なんて大嫌いだから。
 
 だからこそ、無闇に男性を誘惑するような行動は取らなかった。髪を引っ張るように後ろでギュッと結び、黒縁の眼鏡をかけ、男性の目に止まらないようにし、自分なりに努力してきたつもりだった。
 でも、それは生まれてからずっと……という事ではない。
 麻衣子も、中学生の頃は好きな男子の事でキャーキャー騒いだし、相応に可愛らしかったのでそこそこ人気もあった。
 男嫌いになったのは、高校一年の時からだった。
 高校受験で、ずっと行きたかった名門私立女子校の清心女学館に合格した。家族はもちろんの事、麻衣子自身合格通知を受け取った時は、泣き叫びながら喜んだ。
 通学に片道一時間三十分もかかるが、行きたかった高校へ行けるのだから、そんな事は苦にならない。
 麻衣子は、そう信じていた。
 
 * * *
 
「何だか雨が降りそうですね? 早く梅雨明け宣言が出て欲しいです」
 須長が、空を見上げながら言った。
「本当ね。でも、ショップは目と鼻の先だし……このまま行きましょう」
「はい」
 支社から外に出ると、すぐに須長は走り出し、歩道の押しボタンを押した。その素早い行動に、麻衣子は笑みを浮かべた。
 だが、彼女のスカートの裾が軽やかに揺れ、膝の裏よりも上まで捲れて素肌が見えた瞬間、麻衣子の笑みが凍りついた。
 自分の黒いスーツのスカートの裾に手を触れ、力強く下に引っ張る。
 もちろん引っ張る必要はない、しっかり膝下の位置で止まっているし、彼女のようにカジュアルな服装をしているワケではないのだから。
 これは、もう神経質と言って良かった。トラウマは……決して麻衣子の中から消えたりしないのだから。
 
 * * *
 
 清心の制服は、とても可愛かった。赤い幅広の棒タイは胸元で蝶々結びになっており、紺色のワンピースは躯のラインに沿うような製法になってある。ローウエストの所にベルトを留め、その下はボックスプリーツになっており、膝上で揺れる形となっていた。
 紺色のハイソックスとローファーを履き、指定のバッグを持てば……ピッカピカの清心生! 中学時代に三つ編みしていた髪は、今は背中に下ろし、肩甲骨の上で軽やかに揺れている。
「どう! すっごく可愛いと思わない? あぁ、わたしもこれで清心生の仲間入りよ」
「はいはい、入学出来たからって勉強を疎かにしないようにね」
「わかってます! 大変だと思うけれど、勉強って嫌いじゃないし。将来の事はまだわからないけれど、清心で頑張るから」
 母親が嬉しそうに微笑むと、麻衣子も同じように満面の笑みを浮かべた。
 その笑みが消え、だんだん暗くなり、コンタクトから黒縁の眼鏡、髪型もひっ詰めるようになったのは、それから二週間後の事だった。

2008/01/15
2008/01/15〜2008/05/01迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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