『ビューティー・ミラー』【1】

side: 篤史

 水嶋グループ大阪支社の広報部メディア課に配属された俺、如月篤史二十二歳。少しは世間というものがわかってきた……今日この頃。
 
* * *
 
「如月くん、この文法が間違ってるわよ」
 机に一枚の紙を置いたのは、髪を引っ張るように後ろでギュッと結び、黒縁の眼鏡をかけた……社内報チーム主任補佐の楓麻衣子(かえで まいこ)29歳。
 身長は167センチ、体重は52キロ……ぐらいだろうと、篤史は思っていた。
(一応俺の教育係の先輩という事で、何かと注意をしてくる……優しい先輩?)
 仕事が出来るキャリアウーマンで、彼女が指摘する記事や情報はぴたりと的を射てる為、誰もが彼女の意見を尊重していた。
 確かに、社内報の出来はいいと思う。飛ぶようになくなるし、部数も鰻上り。
 
(そのせいで、入社当時から俺の立場も危うくなったんやけどな……)
 
 篤史が入社する前の社内報で、でかでかと大きく報じられたのは、もちろん会長の孫であり、社長の3番目の息子の結婚報道。
 もちろん、三男の結婚相手の事も書かれていた。
 花嫁には弟がいるという事で、結婚式の時に撮った写真も、本人に許可なく勝手に掲載されていた。という事で、篤史がメディア課に配属されるとすぐに視線が一気に集まった。
 
あれが社長の血縁関係をゲットした、幸運な男
 
(幸運なんかと、全然ちゃうわ! 俺の内定と姉ちゃんの結婚は別ものや! 俺は寄ってくる女が、純粋に俺の事を好きで……それで流し目を送ってると思ってたのに)
 まさか、その後ろにある肩書きに引き寄せられてくるとは思ってもみなかった。
男性社員までもが、篤史が水嶋の一員のように接していた。主任に課長……部長までも!
 だが、たった一人だけ……篤史を同期の新入社員と同じように教育し、接してくれた。それが、この女性だった。
 
「社内報だからって、気を抜かないで。社内だけに止まらず、外部にも流出しているんだから」
「すみません」
 篤史は素直に謝ると、素早く視線を上げた。すると、麻衣子はすぐに視線を逸らせる。
「じゃ、宜しく」
 そう言い捨てて、すたすたと歩み去る。
 水嶋で働く秘書に比べて、少しカジュアルな服装をしている広報課だったが、麻衣子はOLの見本とも言えるように、ベージュのスーツをビシッと着こなしていた。
 その服装や髪型、綺麗に整えられた爪を見るだけで、一切浮ついた気持ちがないのが見てとれる。
そんな麻衣子の後ろ姿を、篤史は眺めた。
 篤史は気付いていた。何故、急に視線を逸らしたのかを。
 麻衣子が何を見ていて、そして何も見ていなかったように振る舞った理由……それはきっとアレが原因だろう。
 今までに6回ほど、給湯室で同期入社の女性や先輩に迫られ、キスをされた事がある。その瞬間を偶然に見られたのがこの麻衣子だったが、きつく眼鏡越しに睨まれただけで済み、お咎めも一切なかった。
 まだ四月だったという事もあり、教育係に注意をし、その彼女経由から篤史も注意されると思っていた。
会社は恋愛の場ではない、仕事をするところでイチャつくところではない=c…とか。身構えた篤史だったが、注意がなかった為拍子抜けを感じたのを覚えてる。
 だが、あれ以来……麻衣子の態度は少しずつ変化した。
 いつもどおりに振る舞い、指導の手を緩める事は一切なかったが、麻衣子はふとした瞬間……何かと篤史の唇を見てくる。
(俺が、気付いてないとでも思ってるんか? それとも、俺が迫られる理由は、水嶋の力だとでも暗に告げている? そんなもん、言われんでもわかってるっていうねん!)
 篤史は鼻に皺を寄せながら音を鳴らすと、渡された原稿に視線を落とした。
 
 * * *
 
「篤史くんの携番とメルアド教えて欲しいなぁ♪」
「俺のん?」
 篤史は、呑んでいたビールジョッキをテーブルに置いた。人数合わせで呼ばれたこの合コンは、大学時代の友人からのお達し。
 4月からこの7月にかけて、何度合コンを設定されたか。もちろん、篤史の為……ではない。
友達が女を呼ぶ為の、呼び水≠ニして選ばれたのが篤史だった。
 最初こそ、大学生の頃のノリで楽しんで、火遊びも楽しんだが……仕事先がどこかと訊ねられて言った途端、女たちの目の色が変わった。
(これやったら、社内と全然変わらんやん!)
「ええよ」
 篤史は、大学時代から使っていた携番とメルアドを教えた。
 会社から携帯を支給された為、友達関係は全てそちらに移し、大学時代の携帯は解約しようとしていた。
 だが、最近こういううっとおーしぃ℃魔ェ多い為、誰に知られようが構わない番号として、未だ解約せず使っていた。使っているとは言っても、いつも電源オフだが。
 もちろん、教えたくないのであれば、普通に断ればいい事。
 だが、友達の手前、その場の雰囲気を壊す事のないようにする為、この方法を取っている。
「えぇー、わたしも教えて欲しい!」
「わたしも!」
 4対4のコンパだったが、全員が篤史の番号を知りたがった。男性陣は、もちろん面白くない。
篤史も、その気持ちは理解出来る。
(だから、「俺を呼び水にすな!」って言ってるっていうのに)
「じゃ、全員で交換や!」
 友人に合図を送り、携帯を出させる。
(ホンマ……俺疲れるわ。次回からは、絶対呼び水≠ニして利用させへんように言わんと。俺かって、普通に楽しまさせてくれや!)
 ……あぁぁぁ、あのマスターの空間(※1)が恋しい。
 
「ちょ〜、俺トイレ」
 隣に座っていた……名前も忘れた女がにっこり微笑む。その手が、ジーパンの上から腿を爪で引っかいてきた。何かの合図を送ってるようだ。
 だが、篤史は知らん顔をして席を立った。
 薄暗い廊下を歩きながら、頭をポリポリ掻く。その姿は社会人とは到底見えない、ジーンズにTシャツ姿だった。シルバーの指輪を填めて、鎖のネックレスをし、外見は大学生。
 ただ一つ見破るとすれば……腕にあるフランクミュラーの腕時計だけ。
 とは言っても、これは義兄となった康貴からのプレゼントだった。社会人として……頑張れと。
 ただ、入社一年目の若造が、こんな高級時計を会社でしていたら同期たちに恨まれる。だから、外に出掛ける時しか身に着けない。こんな服装で、まさかフランクミュラーしているとは誰も想像はしないから。
 篤史はクククッと笑みを漏らしながら、トイレを目指す。
 
「ちょっと……待って、イヤ」
 
 突然女の囁き声が聞こえてきた。
 ……もしかして、このままあの角を曲がったら、出歯亀?
(でも、俺……漏れそうやねんけど。えい! こんな場所でしてる方が悪いねん!)
 角を曲がると、やはりそこでスーツを着ていた男が、女性を抱き締めていた。
(俺は知らない、見てない……聴いていない……)
 視線を逸らせて、二人の後ろを通り過ぎようとした。
 
「如月くん!?」
「えっ?」
 
 突然名前を呼ばれて、篤史は伏せていた面を上げた。
 何と、男に抱き締められてる女が、訴えかけるように篤史を見てきたのだ。
 だが、その顔には全く見覚えがなかった。
 
 
(※1)大学時代、篤史がバイトをしていてたカフェ。

2007/08/01
2007/08/01〜2008/01/14迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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