『囁く、ココロの夢魔』【3】

 誰かが頬に触れる。
 優しく……それでいて愛撫の如く……。
 
 莉世はゆっくり目を開けた。
 久しぶりに、悪夢も普通の夢も見ずに眠れたのが、手に取るようにわかった。
 視線を横に向けると、一貴がベッドの端に腰かけて見下ろしてる。
 やっぱりわたしに触れていたのは、一貴だったんだ。
 そして、この馴染みのあるベッドは……わたしのベッド。という事は、ここはわたしの部屋なんだ。
 
 
「どうだ? 気分は?」
 そう聞く一貴の方が、とても具合が悪そうに見える。
「大丈夫。言ったでしょう? ただの寝不足……病気でも何でもない」
「何故寝不足に? 俺が無理強いしたせいか?」
 先週末、一貴は何度も求めてきた。
 それは荒々しく、まるでわたしの全てを奪うかのような行為だった。
 だけどそれが理由ではない。
「違うよ」
 そう先週末のせいじゃない。
「じゃ、何故眠れない?」
 莉世は一貴を見上げた。
 それを一貴が聞くの? 一貴が何も言ってくれないからじゃない。
 莉世は顔を背けた。
 しかし、一貴の手が顎を掴み、再び視線を合わせさせられた。
「言ってみろ」
 真摯に見つめる一貴の瞳が、真っ直ぐココロに突き刺さる。
 しかし、理由など言える筈がない。
 確かに、根源は一貴の何も言わないところにある。
 だけど、それ以降は…わたしが影を引き込んでしまった事が原因だ。わたしが気にしなければ、悪夢に悩まされる事はなかったのに。
「俺が原因か? 俺がお前を睡眠不足にさせてるのか? そうなんだな?」
 違うとも言えない。
 莉世は、瞼を閉じた。
 わたしがはっきり言えばいいんだ。どうして仕事が忙しくなったの? って。それはわたしには言えない事なの? って。 だけど、真実を知りたくない気もする……。 どっちつかずのわたしがいけないんだ。
 悩んでばっかりで、悪夢を呼び寄せてしまって、倒れてしまって……わたし何してるんだろう?
 
「一貴……」
「何だ?」
 莉世は瞼を開けると、一貴を見上げた。
「わたしの事、好き? わたしの事が、大切?」
 一貴はその言葉に驚愕するが、一瞬で立ち直り、莉世の頬を包み込むと、優しくゆっくりと柔らかい唇をついばんだ。
「あぁ。お前を愛してる。お前がとても大切だ。だから片瀬の部屋で倒れてるお前を見て、すごく腹が立って……心配した」
「腹が立つ?」
「あぁ。お前のボタンは外れてるし……スカートは捲くれ上がってた。俺は片瀬がレイプ未遂をしたと思った」
 その検討違いの言葉に、莉世は微笑んだ。
「それはないよ。だって怒られてたんだから」
「あぁ、知ってる。 三崎に聞いたよ」
 彰子……か。
 もう、言わなくてもいいって言ったのに……だけど言ってくれたお陰で、悪夢から救い出してもらえた。一貴の手が、わたしを引っ張り出してくれた。
 
「少しはぐっすり寝れたか?」
「うん」
 悪夢なんて一切見なかった。
 数時間だけど、久しぶりにぐっすり眠れた気がする。
 時計を見ると、20時を回ってた。
 そこで、ハッとなった。
「一貴! 仕事は?」
「あぁ、休んだよ。今は、お前の方が大事だからな……」
 あぁ、そんな風に言われたら……。
 瞼の裏が急にチクチク刺してきたので、思わず瞼を閉じた。
 さっき、無理やり「愛してる」と言わせた時より、今「大事だ」と言われた事の方がすごく嬉しかった。
 仕事を休んでまで、わたしの側にいる事にしてくれた……その気持ちが嬉しかった。
 今はそれで十分。一貴はわたしを大切にしてくれてるのだから……。
 あとは、わたしが悪夢を取り除くだけ。これは、わたしにしか出来ない事だから、わたしがどうにかするしかない。だけど、あの悪夢を追い払うには、わたしには一貴の温もりが必要だ。
 
 
「一貴……抱いて」
 初めて言うその言葉に、一貴は飛び上がる程後ろに下がった。
「下にはおばさんがいるんだぞ! それに卓人だって」
 あぁ、違う違う。わたしの「抱いて」は「セックス」…つまり「愛し合いたい」って意味じゃない。ただ、抱きしめて欲しいだけだよ。
 莉世は、口角をゆっくりあげながら微笑んだ。
「違うよ」
 言いながら起き上がると、一貴の首に抱きつく。
「このまま、わたしを抱きしめて」
 一貴の腕が背中に回ると、ギュゥと抱きしめられた。
 一貴の香い、温もりが、わたしを包み込む。
 しばらく二人とも動かないで、ジッとしていた。
 莉世は、一貴から活力を貰うように躰を押しつけた。
「あぁ……お前がこんな状態だというのに、お前が欲しくてたまらない」
「こんな状態って、別に病気じゃないよ。ただの寝不足、それだけ」
 莉世は、やっと躰を離して微笑んだ。
「キスだけだ……キスだけ……」
 呻きながら、一貴は顔を近づいてきた。
 そのキスに、自ら口を開けて招き入れる。
 莉世は、自分がどんどん大胆になってきてるのがわかった。
 一貴のする事全てに慣れてしまい、もっと……もっと欲しいという渇望が生まれ始めていたからだ。
 こういうわたしを、一貴は嫌うかも知れない。でも、男女関係はいつでも平等だと思う。男が大胆に振る舞うなら、女だって大胆に振る舞っていい筈。
 その時、一貴の下で大胆に振る舞ってる女性がちらついた。
 
「っんん!」
 思わず、莉世は一貴の肩を押してしまった。
 突然の拒絶に、一貴は困惑顔で見つめた。
「莉世? いったい、」
「ううん、何でもない! ……何でもないよ」
 莉世は、焦りながら言葉を紡ぎ出した。
「莉世、苦しかったのか?」
 心配そうに言う一貴に手を伸ばし、少し髭が伸びてザラつく頬に触れた。
「ううん、本当に何でもないの。心配しないで」
 一貴が、わたしを愛してくれてる事はわかった。
 一貴が何も話してくれない事は、もう乗り切るしかない。そうすれば……不安を捨てれば……もう悪夢は忍び寄ってこない筈。
 ……わたしが頑張るしか、強くなるしかないよ。
 
 
――― 〜♪
 
 二人が見つめ合う静寂の中、突然音が鳴り響いた。
 その音が、莉世を一瞬で青ざめさせた。
「何だ?」
「いいの、放っておいて」
 一貴の袖を掴み、そのまま動かないようにするが、一貴が振り返った。
 その先にあったのは、机の上にPCだった。
 真ん中で、クルクル回ってる。
「……あれは?」
「いいの!」
 悲痛に叫ぶその声に、一貴は不審に思い、 莉世の手を退かすとPCの前まで歩いた。
「一貴。やめてったら!」
 莉世はベッドから飛び起きると、急いで机に駆け寄る。
「何だ、メールが受信されたってやつか」
 莉世は、ディスプレイに素早く視線を走らせた。
 差出人は……メリッサだ。
 安堵から、莉世はその場に崩れ落ちた。
「おい、莉世? 大丈夫か? ったく、まだ躰がついていかないのに、走るからだ」
 一貴に抱き上げられるまま、莉世は大人しくしていた。
 一貴が、違う理由を思ってくれたからだ。
 もし、わたしが脱力した理由を知ったら……一貴がどういう行動を取るかわからない。怒るだろうか? それとも昔の事だと……肩を竦める?
「お前は、ゆっくり寝ろ。今日はぐっすり眠れる……俺が保証する」
「うん」
 一貴は、莉世の滑らかな頬に触れながらキスをすると、ゆっくり立ち上がった。
「じゃ、俺は帰るが、明日辛かったら休むんだ、いいな?」
 莉世は、コクコクと頷いた。
「おやすみ、莉世」
「……おやすみなさい」
 一貴が、莉世の部屋から出て行った。
 
 
 しばらくすると、再びPCから音が鳴った。
 ……メール受信の音。
 ほんの時間差で、一貴に見られなかった事に安堵せずにはいられない。
 
「My honey. ――」
  冒頭は恋人に呼びかけるもので始まっていた。  『俺はお前を忘れられない。あの時、俺はカズキに嫉妬してた。俺はお前を手放すべきじゃなかった』  昨日のメールには、そう書いてあった。
 そして、明日もまたメールをすると……
 『俺は休暇を取り、お前に会いにいくつもりだ。あぁ、お前が恋しいよ、リセ』
 まるで、あの聞き慣れた低いバリトンの声で、囁かれたような気がする。
 あの魅力的な声で……
 莉世は、枕に顔を埋めた。
 お互い納得して別れたじゃない。なのに、どうして今さらこんな……メールを出してくるの? グラント、わたしはあんなにあなたを傷つけたのに、どうして?  
 
 莉世は、こんな状況下で眠れるはずがないと思った。
 しかし、一貴の言葉が耳に入る。
 
「お前は、ゆっくり寝ろ。今日はぐっすり眠れる……俺が保証する」
 
 その言葉は、まるで子守り歌のように反芻し、わたしを忘却の彼方へ連れ去ろうとしている。
 そう、忘れていた方がいい。グラントが、来日する可能性は少ないんだから。
 それに、今は一貴との関係に……全力で傾けなければ。
 悪夢を、追い払う事が先だ。一貴を、信用してれば……いい。
 わたしが……出来るのは、それだけなんだから。
 
 莉世は、一貴の言葉を聞きながら、睡魔の波に身を委ねた。
 胸に突き刺さったカケラが、取れるのを祈って……

2003/07/01
  

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