実は、莉世は洗面所で零れそうになった涙を拭うと、気持ちを切り替えてすぐに戻って来たのだった。
その時、ドアの向こうで似た声が言い争うのを、偶然聞いてしまったのだ。
同じような声でも、感情でどちらがどちらかすぐわかった。
声を荒立ててるのが康くんで、冷静だったのが優くん。
わたしの事で、ケンカなんかしなくてもいいのに。
そう思うと、涙が後から後から零れ落ちた。
悲しかったんじゃない。
自分を心配してくれる気持ちが嬉しくて……嬉しくて涙が溢れ出たのだ。
双子の示す愛情は違うけれど、莉世には十分にわかっていた。
それは、莉世が小学生の頃だった時からずっと変わらない、兄としての情。
それが、今も変わらず……一貴と付き合ってるという事で、昔以上に愛情を抱いてくれていると思うと、感極まってしまったのだ。
本当の“妹”じゃないのに、こんな風に愛してもらえるなんて、わたしは幸せ者だよ。
言い争ってまで、親身にわたしの事を思ってくれるんだから。
莉世は、止まらない涙を何度も拭った。
一貴が、何らかの理由で実家に帰る……。
その理由を、一貴も双子も……わたしには言いたくないようだ。
だけど聞きたい、わたしのこの不安を消して欲しい。
でも……泣き喚いて、縋り付く子供のような態度は取りたくない。
じゃぁ、どうしたらいいの?
その時、足音が聞こえた為に、莉世は涙をすぐに拭って、ドアを開けたのだ。
「莉世……」
康貴は、莉世の赤い目を見て、顔を顰めた。
しかし、莉世はそんな辛そうな目で見られたくなかった。
だから、すぐに鞄を手に取ったのだ。
「一貴は?」
そう問うと、一貴が現われた。
実家に帰るだけなのに、ビシッとスーツを着ていた。
ネクタイはしていなかったが、胸ポケットに無造作に入れてあるのを見て、それを後からつけるのだとわかった。
なぜ、スーツなんか?
表情を曇らせた莉世を見た康貴と優貴が、すぐに立ち上がった。
「俺らも家に帰るとするか」
その言葉は、遠くの方で誰かが話してるとしか感じられなかった。
なぜなら、莉世の目は一貴の姿だけを捉えていたからだ。
そして、一貴も顔を強ばらせて莉世だけを見つめる。
「……さぁ、行こっか」
このままいたら、理由を聞きたくなる。
実家で何があるのかを、どうして言ってくれないのか、と。
そんな事を言いたくない!
莉世は、一貴に背を向けて玄関へ歩き出した。
双子は、莉世にドアを開けて待っててくれている。
「ありがとう」
にっこり微笑み、双子の後ろから歩き出そうとした。
途端、手を引っ張られ、玄関内に連れ戻された。
莉世は、その突然の行為に息を飲みながら、後ろを振り返ると同時に、一貴は壁を背に押さえつけ、両手で逃げないように閉じ込められた。
「な、何? 早く行かないと、」
「だまれ」
こうして鋭く見つめられ、間近に感じると、心臓が早鐘のように高鳴る。
それは、一貴だけが齎す影響だった。
急に喉がカラカラになる。
そんな状態に陥ってるのに、一貴は莉世の大きく見開いた目を見つめ続けた。
「いいか? 俺を信用しろ」
その言葉に、恐怖で躰が震えた。
信用? どういう事だろう? 信用してれば、何も問題がないって事?
莉世は目を閉じ、カラカラになった喉を潤そうと唾を飲み込んだが、舌が乾燥していて上手くいかない。
唇を舐めて、ようやく唾が飲み込めた。気持ちを落ち着けてから目を開くと、一貴は莉世の唇を見ていた。
その求めるような深い目を見て、莉世は思わず呻いた。
その声を聞いた一貴が、ゆっくり莉世と視線を合わす。
「何があっても、俺を信用するんだ。わかったな?」
何があっても? そんな……信用なんて出来る? わたしは、そこまで強いだろうか? 信用はしたい、もちろん愛する人の言葉なのだから。でも、だからといって……何があっても信用出来るものだろうか?
不安が表情に出たのか、一貴がすかさず莉世の唇を奪った。
「……っぁ」
その貪欲な貪りは、尋常ではなかった。
何かが、一貴を急きたてるような……そんな痛いキスだった。
「おい、何やって、」
康貴の苛立った声が途中で切れ、息を飲む音が莉世の耳に微かに届いた。
一貴は、ゆっくり莉世の唇から離れると、莉世の目を見つめたまま、
「康貴、向こうへ行ってろ!」
と絞り出すような声で言った。
一貴は莉世だけを見ているのに、康貴がいなくなったと感じ取ると、口を開いた。
「いいか? 俺が、お前だけを愛してるって事を、決して忘れるな」
莉世は、どうして一貴が、今ここまで言うのかわからなかった。
ドクンドクンと脈打つ音を頭で聞きながら、莉世は感情を露にする目を閉じた。
大きな脈の音の間から、ドアの閉まる音が微かに聞こえた。
何だろう……何かあるのだろうか?
今までだって、いろんな事があったけど、こうまでして一貴が言ってくる事はなかった。それが、どうして今なの? 何があるの? 双子がやってきた事に、何か理由が? ……スーツを着ているのは何故?
疑問符ばかりが、頭を駆け巡る。
一貴は、手をついたまま肘も壁に凭れさせた。
そうする事によって、一貴の顔が莉世を近くで見下ろす形になった。
一貴は屈み込むと、莉世の震える唇に舌を這わせた。
その甘い行為が、莉世を奮わせた。
背中がゾクゾクするような、甘い愛撫……。
「大丈夫だ、何も心配することはない。いいな?」
切実に訴える声音ではなく、穏やかに諭すような声が、温かい息遣いと共に口元に反射した。
瞼を開けると、再びキスをされた。
それは、先程のような貪るキスではなく……愛情を込めたキスだった。
莉世は、そのキスに応えるように背中に抱きついた。
途端、一貴はやっと壁から手を離し、莉世の腰を上に引っ張るように強く抱きしめ、何度も顔の位置を変えては莉世の舌に絡めた。
お互いの愛情を示すように……気持ちを伝えるように。
お願い……わたしに理由を言って。
何故実家に帰るの? わたしに信用しろって……今言うのは何故?
お願いだから、私を閉ざさないで……一貴のココロの中に入らせて。
莉世は、訴えるように一貴の唇を挟んだ。
しかし……一貴の口からは、何も出なかった。
ココロに漂う黒雲を、一貴に吹き飛ばしてもらう事は出来なかったのだ。
「さぁ、もう行かないと」
一貴は力を抜いて、莉世をゆっくり離すと、玄関のドアを開けた。
莉世は、まだ余韻でふらつく足をしっかり地面に押しつけ、戸惑ったままドアの外へ出た。
エレベーターホールでは、優貴と康貴がこちらを見てる。
一貴は、莉世の腰を支えて歩き出した。
車中では、誰も一言も話さなかった。
空気はピリピリしていて、肌もその異常を敏感に感じ取っている。
無言のまま、車は莉世の家の前に駐車した。
何か言いたい。
あの意味深な言葉の意味は、いったい何なの? って。
だが、今個人的な話は出来なかった。
後部座席には、優貴と康貴が座ってるからだ。
「ありがとう」
そう一言だけ言うと、莉世は助手席から外へ出た。
康貴は、何か言いたそうな表情をしながら無言を守り、優貴の表情からは何も読み取る事が出来なかった。
一貴は、莉世を下ろすとそのまま走り去った。
莉世は涙を堪え、不安になる気持ちを追い払う事が出来ないまま、家に入るしかなかった。
――― 一貴の身に何が起きたのか、莉世がそれを知るのは、まだ先の話だった。