『人生の境界線』

―――珠里、22歳。

 珠里の実家に、結婚式の招待状が届いた。幼稚舎からずっと一緒の澤里凛子が、高校時代から婚約していた小田原龍(おだわらたつや)と、とうとう結婚する。
 何か今さらという気がしないでもない。凛子が大学4年の時、ふたりは既に結婚前のお試し同棲をしていたから。
「凛子さんが結婚……ねぇ。珠里、貴女はいつママに花嫁姿を見せてくれるの?」
 また、その話。
 珠里は、奥歯をギュッと噛み締めながら気持ちを堪えると、大きく息を吸ってから口を開いた。
「ママ、わたしはまだ大学を卒業したばかりなのよ? それに、わたしは凛子と違って婚約者なんていないし」
 何かを言おうとした母の前に、手を出した。
「ストップ! わたしには婚約者なんていりません。結婚する相手は自分で決めます。絶対会社同士の利益になる結婚はしない」
「でも、珠里……お父様の会社の為になるようなことをしてあげないと」
「それは兄さんの役目よ。わたしに何かを求めないで」
 母が拗ねたように頬を膨らませるのを見て、思わず謝りたくなった。珠里の母は箱入り娘で、今もまだとても若く見える。事実、二人で外を歩けば姉妹と言われてしまうぐらいだ。
 だが、もう少し年相応に成長して欲しいと、つい思ってしまう。珠里もお嬢様だが、母はさらにそれを上にいくお嬢様のままだから。
「そうだ、わたし一人暮らしするから」
「まぁ!」
「モデルだけの仕事だったのに、ドラマ出演も決まって大変なの。夜も遅くなるし、これからもっと忙しくなるから、一人暮らしするわ」
「じゃ、マンションを買わなくっちゃ! 安心して過ごせるようにセキュリティのしっかりした場所を選ばなくちゃね。場所はどこがいい? 麻布ならお買い物がしやすいからいいわよね? お父様にすぐお願いしましょう! いい物件を見つけなければ。忙しくなるわ!」
 珠里の言葉を聞こうともせず、いきなり立ち上がると家政婦の和津かずを呼びながらリビングから出ていった。
 取り残された珠里は、これもいつもの事だと思うと、優雅にティーカップを持ち一口啜った。
 だが、母同様珠里も急に立ち上がると、暖炉の上に置いてある灰皿を拝借して再びソファに戻った。
 吸い慣れてしまったメンソールのたばこを一本取り出すと、火を点ける。
 美味しい……というか、ホッとする。イライラしてしまいそうになる時や、何かを考えたい時は、こうやって落ち着こうとするのが常になってしまった。
 今考えたい事……というか、思い出してしまった事が、脳裏から離れない。
 珠里は、再び招待状を手に取った。
「凛子……か」
 珠里は、凛子の家に遊びに行った時に出会った、犀川陽一郎の事を思い出していた。
 二人の付き合いは、珠里が高校を卒業したその夜、最終的に大学へ進むと告げたと同時に別れた。決してケンカ別れをしたとか、浮気発覚……というものでなく、二人が話し合った結果穏便に別れる事になった。
(わたしは……だけど)
 珠里は立ち上がると、たばこを指に挟んだまま庭へと通じるガラス戸まで行き、そこから外へと出た。庭師によって整えられた花壇の側にあるベンチに座り、タイルの上に灰を落とす。
「わたしは、まだ子供だったって事よね」
 ふたりが別れたのは珠里が18歳、犀川が31歳の事だった。
 
 
 * * *
 
 ―――珠里18歳、高校3年の秋。
 
「珠里……俺の妻になってこの先一生側にいて欲しい」
 いつものように感情の赴くまま激しく愛し合った後、まだしっとりとしている珠里の素肌を撫でながら、犀川はプロポーズをした。
 そして、慈しむように珠里の肩にキスをする。
 突然のプロポーズに、珠里は何も言えなかった。だがすぐ我に戻ると、シーツで胸を隠しながら身を起こし、犀川を見上げた。
「犀川さん、わたし……まだ十八歳になったばかりよ? あなたと付き合い始めてまだ二年しか経っていない」
「だが、俺のする全てに文句なんかないだろう?」
 優しく頬を撫でられると、子猫のようにゴロゴロ喉を鳴らして、縋り付いてしまいそうになる。そうなってもおかしくない程、珠里は犀川から身も心も解放するような愛され方をしてきた。
「……っ、ぇぇ……文句なんかないわ」
 珠里は、甘い吐息を漏らしながら囁いた。
「俺と結婚してくれるね? 来年には」
 来年!?
 珠里は、目を見開ながら少し身を引いた。
「待って、わたし……来年はエスカレーターで大学に進学するのよ?」
「……大学へは行かず、専業主婦になって欲しいと思うのは俺の我が儘だとわかってる。だが、俺は珠里にはそうして欲しいと、」
「出来ないわ。大学までは出ると家族と約束をしているの。学業なんか関係ないとわたしは思っているけれど」
(そう関係ない。だけど、親との約束を破るワケにはいかない。わたしは、それを引き換えに婚約者の件を蹴るような真似をしてるんだもの)
「それに、結婚はまだ早いわ。大学卒業して、しばらく外に出て、落ち着いてから、」
「珠里、俺はそんなに待てない。今は三十一歳だ。珠里の大学四年間プラス二年ぐらい予備として考えた時、俺はいったい何歳だ? もう四十歳に手が届きそうな年齢になるんだぞ?」
 40歳……
 珠里は、犀川の顔をマジマジと見つめた。
 犀川は、とても男らしくて優しくて、ちょっとした仕草に他の女性が振り向く男性。彼は見た目も内面もとても大人だったから、珠里は彼の包容力に身を任せるだけで良く……年齢なんて全く気にした事がなかった。
 でも、今現実を突きつけられて、年齢の差をはっきり感じ取ってしまった。
「わかってる、珠里は若い……。だが女性は十六歳で結婚出来るんだ。……俺ではダメか? 珠里を養っていけないとでも?」
「そんな事思ってない!」
 珠里は激しく頭を振った。
 ただ、珠里は大学卒業してから少し外を見て、それから結婚という人生設計を立てていた。
(今すぐ結婚なんて、わたしは全然考えられない!)
「珠里、俺は……二年前に付き合って欲しいと言われて、付き合おうと思った時、結婚を考えながら付き合ってきた」
 結婚を考えて?
 珠里は、皺が付くぐらいシーツをギュッときつく握り締めた。珠里自身、結婚なんて一度も考えずに犀川と付き合ってきたからだ。
 二人はお互いに作り出した境界の左右に立ち、違う方向を向きながら付き合ってきたのね。好きだからこそ、共に過ごす幸せを感じてこれたけど、今その境界が明るみになった事で……何かを決めなければいけなくなってしまった。
「犀川さん……」
「何?」
 穏やかに訊き返してくる犀川の優しさに胸を打たれた珠里は、彼の胸板にそっと身を預けた。犀川は、いつものように優しく肩を抱いてくれる。
「犀川さんが、わたしと同じ年齢の時、結婚なんて考える事が出来た?」
 珠里の問いかけで、犀川の心臓の音が不規則になったように聴こえた。
「……そう、だな。確かに、珠里と同じ高校三年の時は、大学進学の事で頭がいっぱいだったから、結婚なんて考えなかったな」
 少し身を起こして、犀川の鎖骨にそっと触れてから首筋へと手を伸ばした。
「わたしもそうなの……。学生の身で結婚なんて考えた事は一度もなかった。ただ犀川さんと付き合える悦びと幸せを感じるだけでいっぱいだった」
「珠里……。でも俺が結婚を考えなかったのは、結婚をしたいと思える女性と付き合ってはいかなかったからだ」
 そう言われると、痛かった。まるで、珠里が犀川を本気で好きではないと言われているようだったから。
「……少し、考えさせてもらっていい?」
「あぁ。幸せを感じる答えを貰えるよう、祈っておくよ」
 珠里はこめかみにキスを受けると、ギュッと犀川に抱きついた。
 愛おしさからではなく、彼が望む返事を出来なかったことを謝るように……
 
 * * *
 
 持っていたタバコの火を足元のタイルで消すと、珠里は天を仰ぐように清々しい青空を見上げた。
「わたしたちの間には、考えの違いだけが立ちはだかったんじゃない。お互いの環境も境界となってわかりあえなかったんだわ。好きだから……では進めない道もある。でも、もし、あのプロポーズが……陽一からだったとしたら、わたしはあんなに悩む事があった?」
 珠里は、頭を振った。
「珠里、しっかり!」
 大声を出して立ち上がると、珠里は家に入ろうと歩き出した。
「珠里? 帰ってたのか?」
 珠里が玄関の方を見ると、そこには兄だけではなく、小野寺陽一に水嶋一貴までもいた。
「珠里、久しぶりだな。元気にしていたか?」
 何事もなかったかのように話しかけてくる水嶋一貴を、珠里は凝視した。
(何で? 響子さんという恋人を兄さんに盗られたっていうのに、どうしてまだ昔のように兄さんと友達でいられるの?)
「珠里……」
 陽一に名を呼ばれて、そちらに目を向けた。
 話す事なんて何もない!
 珠里はただ兄たちに向かって頷くと、先程出てきたテラスから家に入った。
 後ろから、兄たちが何やら話す声が聞こえるが、珠里には関係ない。
 珠里は置きっぱなしにしていたバッグを手に取ると、彼らと再び遭遇しないよう、兄たちが玄関を通り過ぎた後すぐに家を出た。
 彼らと同じ境界から離れるように……

2009/04/22
  

Template by Starlit