『携帯を片手に』

 珠里は、もう一度プロダクションに戻った……
 
 その連絡が、たった今陽一の携帯に入ったところだった。
 この知らせばかりが脳裏を過り、結果、仕事に集中出来ないとわかると、陽一は事務所内にある休憩ルームへ向かった。
 陽一が問題の雑誌社に珠里を推した訳ではなかったが、いつの間にか珠里をモデルの世界へ引っ張り込む道を作ってしまった。
(何故モデルを辞めたいのか……俺にはその理由を言ってくれたのに)
 
お前がそういう態度に出るのなら、俺は手段を選ばない。それでいいのか?
 
 確かに、そう言った。
 だが、それは珠里を戒める為で、窮地に追い込むような事をするつもりではなかった。どうして、こうなってしまったんだろう?
 陽一はポケットから財布を取り出すと、問題となった珠里の写真抜き取り、それを眺めた。
(全てこの写真のせい……だな。俺が、珠里の今の姿を、この手で写真に捕らえてしまったから)
 この写真を見ると、無性に女が欲しくなる。荒っぽく求め、あらゆる快楽を与えたくなる。
 だが、陽一の相手をするのは……決して珠里ではない!
 荒々しく財布を閉じると、陽一はあの妖艶な笑みを脳裏から振り払おうように、天井を仰ぎながらソファに凭れた。
(珠里は、俺を許してはくれないだろう。もう二度と会おうとさえしてくれないかも知れない。だが、俺はそれでも珠里を見放す事は出来ない)
 幼い頃から決められている……婚約者≠ニ結婚するまで。
 陽一はギュッと瞼を閉じると、疲れを少しでも癒そうとするように、眉間を指で押したり揉んだりした。
 
 四肢をだらしなく伸ばしていた陽一だったが、何かを思い出したように急に起き上がると携帯を取り出した。珠里が絡んでさえいなければメモリーに入れる事すらしなかった番号を表示させると、そのまま躊躇する事なくボタンを押す。
『お電話ありがとうございます、マシェリ≠フ笠原です』
「……小野寺です」
『・・・』
 今まで何度も電話をしていた為、既に陽一の携帯番号は店側で登録されているだろう。それに、客商売をしているのなら、こちらが話そうとする内容もわかっている筈。
 だが、特殊な店の為、こちらが要件を述べるまで一切口を割らない。それがまた客から好まれてるところかも知れない。
「予約をしたい。外出だ。登録ナンバーは……」
 珠里を見つけ、すぐに会員登録したナンバーを相手に伝えた。
『確認出来ました。いつもご利用ありがとうございます。ご希望はございますか?』
 陽一は、携帯をギュッと握り締めた。
「……今週の金曜、珠里を二時間」
『……少々お待ち下さいませ』
 保留の音楽が流れ始めた。それを耳にした時、陽一は眉を顰めた。
 おかしい。今まで幾度となく珠里を指名してきたが、こうやって待たされる事は一度もなかった。最近になって、毎回断れるようになった時も待たされる事はなかった。
 珠里に関して何かある……。陽一がそう睨んだ時、保留音が止まった。
『大変お待たせしました、わたくし、マシェリ<Iーナーの美嘉と申します』
 オーナーが、電話口にわざわざ登場?
『いつも珠里をご贔屓にして下さり、どうもありがとうございました』
 窓際まで歩くと、陽一は行き交う車を眺めながら腕を組んだ。
『その、珠里なんですが……残念ですが辞めてしまいましたの。宜しければ、珠里と似た子を紹介しますけれど?』
 辞めた……
 陽一は、思わず天を煽いだ。
 珠里は……もうあんな仕事をする事はなくなった。
(これは、俺がずっと求めていた事。いろんな男と出歩き、プレゼントを貰い……唇を許すなんて事は、もう二度とない!)
「それなら、結構です」
『まぁ、それは残念ですわ。では、また次の機会にでもご利用して下さいね、女の子たちだけでなく、スタッフも心よりお待ち申し上げておりますわ』
 
 * * *
 
 美嘉は挨拶をすると、通話を切った。
「美嘉さん、いいんですか? あんな事を言って」
「……仕方ないじゃない、珠里にそうしてくれって言われたんだし」
 美嘉は、綺麗に施したネイルを傷つけないよう笠原に子機を渡すと、マホガニーのデスクに凭れた。
「ですが、」
「珠里も簡単にマシェリ≠ノ顔を出せなくなる。だからそれでいいのよ。それに、珠里を可愛がってくれた方たちの弱みは押さえてある。珠里がモデルとして有名になっても、彼らは決して口を割る事はないと思うわ。だから、彼らと珠里が会う時は、仕事ではない。もちろん、御礼としてきっちりいただくものはいただくけれどね」
 笠原は、静かに頭を振った。
「わかっているんでしょう? 彼は、珠里さんを愛している」
「あら! それなら隠しておいて正解じゃない? 珠里は珠里で、彼のした事に対抗したいのよ。いつものように、会うだけ。しかも相手も地位のある人だし、珠里もこれから注目を浴びるようになる。悪いことにはならないわ」
「ですが、」
「わたしが、ならないって言ってるやろ!」
 関西弁に変わった瞬間、笠原は口を閉じた。
「珠里は、わたしにとって妹みたいなものや。もし珠里に何か起ころうでもしたら、バックを使ってでもあいつらを懲らしめてやる!」
「わかりました」
 笠原は、美嘉が本気で後ろ楯を利用すると言い切ったのを聞いて、ただそう言うしかなかった。事実、笠原の本来の仕事は美嘉を後ろで支え守り、彼女の全てをサポートする事。
 美嘉は笠原の従順な言葉を聞くと、一瞬で笑みを浮かべ、彼の頬を爪でゆっくり愛撫した。
「いい子ね、笠原は。本当ココに……わたしの側に居るのはもったいないぐらい」
 ずっと抑え込んでいた欲望が膨らんでくる。それも、下腹部周辺に……
「でも、わたしには貴方が必要だわ。わかっているでしょ?」
 美嘉は、そのまま背伸びをすると、笠原の頬にキスをした。しかも、長くたっぷりと。
「美嘉っさんっ!」
 頬についたブロンズ色の口紅を親指で拭うと、美嘉はにっこり微笑んで、彼の手首を掴んだ。
「行きましょう」
 笠原はされるがままいつものように美嘉と共に、マシェリ≠フ事務所から、女の子たちが集まる奥のプライベートルームへ向かったのだった。
 
 * * *
 
 ―――それより少し前の事。
 陽一は美嘉に挨拶をすると、通話を切った。携帯をギュッと握り締めてから、ジーンズの後ろポケットに入れる。
 一気に肩の力が抜けると、陽一の躯に力が漲ってきた。
 これでいい、これで……。一先ず、珠里を守る事が出来たのだから。
 だが、次はモデルの世界が待ち受けている。
(俺は、そっちでも珠里を守る、守ってみせる!)
 だが、昔とは違う珠里の容貌や言動に、陽一はすぐ顔を顰めた。
 もしかしたら、とんでもない事をしたのかも知れない……
 この先、何が待ち受けているのか想像もつかなかったが、陽一は珠里を必ず危険な目に遭わせないと誓うと、先程放り投げだしたままの仕事に戻るべく、休憩ルームを後にしたのだった。

2009/01/20
  

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