『螺旋階段のように…』【2】

 美嘉の意味深な言葉を反芻しながら紅茶のカップを持つと、珠里はキッチンへ向かった。そこには、店とは全く関係のない家政婦がいる。
 詳しい事は知らないが、笠原同様、美嘉が大阪から連れ来た人らしい。いや、美嘉を追うようにして着いてきたと言った方が正しいのか。
「もう宜しいんですの?」
 優しく微笑みかけられると、珠里も同じような笑みを返した。
「えぇ。ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
 彼女が食器を片付ける様子を見てから、珠里は美嘉の言葉を守るようにキッチンを後にし、ダイニングから廊下へ出た。
「仕事はなし……か」
 どうして今日に限って、早く帰れなんて言ったのかしら?
 訝しく思いながらも、お店とは別の裏口へ一歩出た。その時は気付かなかったが、門を出て初めて車に寄りかかっている陽一が目に飛び込んできた。
 
「陽一……」
 
 彼を見ただけでいつものように血が騒ぎ、心臓がドキドキして躯が熱くなる。一瞬瞼を閉じて陽一の姿を消そうと試みたが、目を開けてもそれは消えなかった。
 どうして彼がここに居るの?
(……美嘉さん、知っていたのね! 陽一がここにいるって。だから、わたしに仕事はせず帰れって。えぇ、そうするわよ。真っ直ぐ帰ってやるわ!)
 陽一がいる方向へ行かなければ駅には行けないし、タクシーも拾えない。
 だが、臆病風に吹かれたのか、自然と彼とは反対方向へ足を向けていた。
「珠里!」
 陽一が後を追いかけてくる。珠里は、陽一を振り切ろうと走り出した。
(陽一とは、個人的に会いたくない! もうわたしを弄んで欲しくないし、妹のように扱われるのもまっぴらごめんよ!)
 後方から追いかけてくる靴音が、迫ってきていた。ヒールを履いている珠里に追いつくのは、もう時間の問題だろう。
 珠里は、周囲を見回した。その時、洒落た建物が目に飛び込んできた。
 
 もしかして……アレが噂のランジェリーショップ!?
 
 一階はティーンズ専門、二階はミス・ミセス専門、三階はセクシャル専門となっていた。四階は美容に関しての店、五階はガーデンテラスとなっている。
 珠里は、マシェリ≠ナも噂になっていたそのビルに飛び込んだ。アンティーク調の螺旋階段が目に入ると、一目散に駆け上がる。女性向けの建物だから追いかけてこないと確信していても、落ちつく余裕すらなかったからだ。
 二階から三階に向かいかけた時、下から陽一が叫んだ。
「俺から逃げ切れると思うなよ!」
 下を覗くと、陽一が階上にいる珠里を見上げていた。そして二人の視線が交わされると、陽一は二段抜かしで階段を駆け上がってくるのが見えた。
 自分の失態に気付いた珠里だったが、それでも上へと駆け上がった。
 植物を植えて緑化しているガーデンテラスには誰もおらず、とても広くて清々しい気持ちになれるような造りになっている。
 だが、陽一が現れた事で一気に敷地が狭まった感覚に陥った。
 
「何なのよ、いったい! わたしには構わないでと言ったでしょ?」
 肩で息をしながら、珠里は悲痛な叫びを漏らした。
「……それは出来ないと言った筈だ」
 陽一の逞しい胸板が大きく動いている。まるで愛し合った後のように……
 彼に平伏して、衝動的に愛してと告げたくなる。
 でも、……恋焦がれるような姿態を、彼には見せたくはなかった。
 珠里は一瞬瞼を閉じで、自分の気持ちが陽一に伝わらないようにした。それでも、弱みを見せたくはないという気持ちから、すぐに彼を睨み付ける。
「信じられないわ! 男性がこんな場所に来るなんて」
 陽一は、珠里を嘲笑うかのように片眉を上げた。
「知らないのか? 女性に好みの下着を着させて、それを脱がす喜びを味わう為に、男はこういう店に堂々と来るんだ」
 一瞬で珠里の顔が染まっていく。
 恥ずかしさ……ではない。陽一が恋人を脱がす為だけに下着を選び、それをプレゼントする姿が脳裏に浮かんだからだ。
 とても、とてもエロティックな情景が。
 ただ……その相手は残念ながら珠里本人ではないけれど。
 珠里は彼に背を向けて、自分を両手で抱き締めながら夕焼けに染まる空を見つめた。
「そんな事を言ってるんじゃないの。わかるでしょ?」
「……俺が珠里を追う理由もわってる筈だ」
 陽一が何を言いたいのかわかってる。それが嫌なのだと、はっきり伝えているのに、彼は決して諦めようとしない。
 脱力したように俯くと、珠里は片手で両目を覆った。
「わたしの事は放っておいて。陽一はわたしの家族でも兄≠ナもない。だから、心配してもらう筋合いは全くないのよ。それに、」
 珠里は振り向いた。だが、すぐ目の前に陽一が来ているのを知ると、思わず息を飲んだ。
「それに?」
 陽一が言葉を促す。
 珠里はゴクッと唾を飲み込むと、顎を突き出して陽一を見上げた。
「わたしはこの仕事を辞める気はないわ。誰に何を言われようとも、ね」
 そう言った瞬間、陽一の表情が醜く歪んだ。初めて見た表情だった。
「俺の自制心を試そうとでもいうのか?」
「自制心? そんなものお願いした事があって?」
 足を一歩下げながら横を向いた。
「変よ、陽一。今までわたしの事は無関心だったのに、デート嬢をしていると知った時から、わたしの前に現れては辞めるように言う」
 吐き捨てるように言うと、陽一の手が伸びてきて珠里の顎を掴んだ。何も見逃す事がないように視線を絡めてくる。
 珠里はいとも簡単に靡きそうになる自分に嫌気を覚えながらも、陽一から視線を逸らさないようしっかり見つめ返した。
「当然だ、お前は俺にとっては妹%ッ然で、」
「わたしは陽一の妹≠カゃないわ!」
 力強く頭を振って、陽一の手から逃れた。
「何度言えばわかるの? ……ううん、わかってはくれないのね。陽一にとってわたしという存在は親友の妹≠ナしかないんだから。それをわからせようとするわたしがバカだったわ」
 珠里は陽一に一瞥すると、先程上ってきた螺旋階段へ向かった。
 真っ直ぐな道を歩めばいいのに……
(気持ちを誤魔化すから、この螺旋階段のようにわたしの心ももひねくれてしまったのね)
 珠里が螺旋階段に向かう段に足を置いた時、陽一が声を張り上げた。
 
「お前がそういう態度に出るのなら、俺は手段を選ばない。それでいいのか?」
 
 唸るようなその声に、珠里は足を止めた。
 手段を選ばない?
(……陽一に何が出来るっていうの? わたしの両親に言いたければ言えばいい、兄さんに話すのならそれでも良し。彼の手段とやらが、わたしを追い詰めるようになる事は決してないわ。だって、誰に知られたって別に構わないんだもの。そうよ、望むところだわ!)
 珠里は、陽一を振り返って見る事もないまま、螺旋階段の手すりを掴むとそのまま降りた。
 
 
 残された陽一は、消えていった珠里の背中を睨むように見つめていた。
 知らぬ間に強く握っていた拳を開くと、ポケットに手を突っ込んで一枚の写真を取り出す。
 そこには、昼間隠し撮りした珠里が写っていた。
 陽一がプレゼントしたピアスを揺らしながら、何と美しく微笑んでいるのだろうか。その微笑みは、昔陽一に向かって笑みを零したのと同じくらい綺麗だった。
 だが、目を奪われたのはそれだけではない、他にも理由があった。今まで無視してい事実が写真となって表われていたのだ。
 そこには、女性として美しく成長した以外に、女としての妖艶さがあった。それはあの年齢で持てるものではない。
 珠里は男≠知っている! それも一度や二度で得られるものではない……女の悦びまでも経験している!
 カメラマンは、被写体の全てを見抜く力が時々備わっている。偶然、陽一にもその力があった。
 結果、写真界では若造でありながら名を高める事が出来た。
 だが、その力で……カメラを通して、珠里の女としての面を見抜きたくはなかった。
 あの可愛かった妹≠ェ、既に男に躯を開いて、しかも官能を漂わせる程の快感を得ている事実を知りたくはなかった。珠里には、まだ清らかで……男のお≠フ字も知らない処女でいて欲しかった!
 この事実を知った時、どれほど胸の痛みを覚えた事だろう。焼けつくような炎を感じると同時に、どす黒い血が穴という穴から噴き出しそうな、何とも言えない感情さえ抱いた。
 再びあの表現し難い感情が蘇るのを感じた陽一は、写真をグシャと握り潰すと、それを再びポケットへ入れた。
(珠里……。俺が何かするまでもなく、勝手に一人歩きしそうだ)
 陽一は、しばらく経ってから珠里同様螺旋階段へ向かった。もう一度事務所へ戻る為に……

2008/12/13
  

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