『パンドラの箱』【1】

 売れっ子モデルとして名を馳せるほんの少し前、珠里が大学生の頃のこと……
「いい加減にこんなことをするのはやめるんだ」
 5つ年上の凄腕カメラマン小野寺陽一が、阿久津珠里を店側に指名し、ふたりが顔を突き合わせた途端いつものように発する言葉と全く同じだった。

 珠里は、表向きはお嬢様大学へ通う上流家庭の一人娘。銀行家の父の跡を継ぐ兄も真面目な性格で、ごく普通の円満な家庭だった。
 だが、いい娘で過ごすには……珠里は気性が激し過ぎた。
 とは言っても、昔は本当に素直で優しい女の子だった。こんな強がりな性格になったのは、全て、彼≠ノ対する想いを胸に秘めるしかなかった思春期のせいだろう。
 もし、堂々と陽一に告白して振られていれば、ここまで自暴自棄になって彼を悩ますような事はなかったと思う。
 一言、「珠里の心が弱いからだ」と言われてしまえばそれでお終いだけど。
 珠里は、こちらを睨む陽一を真正面から見返した。そうすることしか、この身を守れないとわかっていたからだ。
 珠里がこんな危なげなバイトをするようになったのは、高校時代に付き合っていた彼と別れ、一人寂しくホテルのバーへ行った数年前からだった。
 未成年でアルコールは呑めなかった、こういう場所は行き慣れている。ノンアルコールのジュースを前にソファに座っていると、一人の女性が隣に座った。
 その女性こそ、珠里がバイトをするようになったマシェリ≠経営する関西出身の美嘉だった。美嘉と意気投合した珠里は刺激を求めて、親にも兄にも嘘をついて、そこでデート嬢のバイトをするようになった。
 当時は未成年だったので、危なげなコースを選択する事はなかった。
 だが、今はもう未成年ではない。性行為を許すか許さないかは、珠里自身が自由に選ぶ事が出来た。
 しかし、以前同様に珠里は普通のイメクラ嬢兼デート嬢を選んだ。躯を売るところまで、珠里はまだ落ちたくはなかった。
 にもかかわらず、一年以上経ってもこのバイトを続けているのは美嘉の人柄だけでなく、気が向くままに演じる珠里の性格と一致していたのもあるかも知れない。
 お客が希望する女性のように振る舞いさえすれば、楽しくデートも出来るし、豪華な食事をご馳走してもらえる。さらに、お小遣いまで貰える……こんな割りのいいバイトはない。
 ところが、偶然数ヶ月前にその姿を彼≠ノ見つかり後をつけられた。働き場所を特定され……そして今に至っていた。
 
 
「大人の女性希望……という事だったから、口げんかはしたくないの」
 陽一が望む女性はいつも大人の女性ばかり……と言いたかったが、グッと堪える。
 OLが仕事を終えた後に髪型を変えたり、口紅の色を変えて胸元のボタンを一つ二つ外して夜の装いをするように、珠里も雑誌に見習ってそうしていた。
「そうさ、それが俺の好みの女。……珠里にはまだ早い」
 陽一が、珠里の姿を眺め回しながらも軽蔑するような視線を向けてきた。珠里は怒りをグッと堪えながら肩を竦める。
「じゃ、他の女性を紹介するように店に言っておく? 陽一好みの女性になってくれる人は、店ににはたくさんいるから。それに、」
 珠里は陽一から視線を逸らして、こちらをチラッと見つめては通り過ぎていく男性たちの中から、誰かを探すフリをした。
「陽一は、わたしの好みのタイプではないの。違う人との方が、楽しく過ごせるかもね」
 いつの間に側に近寄ってきたのかわからないが、陽一がいきなり珠里の腕を強く掴んだ。
「そんな強がりはやめるんだ。俺の知っている珠里は……そんな女じゃない」
(陽一はわたしの事なんて知らないし、知ろうともしてない!)
「陽一の知ってるわたしって、せいぜい中学生の頃まででしょ? 何も知らない……まだ女の子≠セった頃のね」
 張り裂けそうな心の痛みを隠しながらも、余裕すら感じさせる笑みを浮かべた、慣れた手つきで、そっと陽一の手を振り解く。
「さぁ、若いながらもプロカメラマンとして成功した陽一が、このわたしとデートする為だけにお金を払ってくれてるんだから……いつものようにデートしましょうよ」
 これが仕事だとわからせるように、陽一の腕に手を絡ませる。すると、いつもの如く陽一の躯が少し強ばったのが伝わってきた。
(わたしの方が、どれだけこの状況に緊張しているかわかってるの? 男に媚びを売るようなこんなわたしを見せつける事になって、心を痛めているのと同時に……こうやって堂々と彼女のフリが出来る事に心躍らせているという事を)
 珠里は寂しそうに笑みを浮かべながら、いつものコースとなったバーへ向かった。
「珠里、遅くなったが……」
 お酒を呑み始めて二杯目も呑み干そうという時、陽一は一つの袋を取り出した。若い女性でも気軽に買えるジュエリー店のロゴがプリントされている。
 本来なら、陽一はもっと高価な品を買えるし、珠里もそういう品を持っていた。
 だからこそ、対等な存在としてではなく、女として格下げされた事に腹を立てるべきだった。なのに、陽一から初めてジュエリーを貰えた喜びで、怒るどころか胸が震えてくる。
 しかし、珠里はその喜びをグッと堪え、こういう事は慣れてる風を装って、袋から綺麗にラッピングされた掌サイズの箱を手に取った。
「陽一からプレゼントだなんて……大学入学のお祝いを貰った時以来じゃない?」
「……そうだな」
 陽一は、ウィスキーのグラスを傾けたりしながら、ジッと氷を見つめていた。
「まっ、わたしがデートする相手は、毎回何かプレゼントしてくれるんだけどね。もちろん、貢がせてるんじゃないわよ。わたしを喜ばそうとして買ってきてくれるの。わたしは彼らの気持ちが嬉しくって、御礼もしたり…」
「御礼って?」
 陽一が、こちらを見てくる。間接照明と蝋燭の光が、陽一の瞳を危険な程妖しく光らせていた。
 何て素敵なの! あんな瞳で見つめて欲しいってどれほど思ったか。
(ベッドの中で……わたしの上になって、下になっても……あんな風に情熱を湛えたような瞳で見つめて欲しい!)
 叶わぬ夢だと、わかっているけれど……
 珠里は、いつの間にか口の端を下げ悲しそうに微笑んでいた。
「……珠里?」
 そう呼ばれて、珠里は視線を上げた。今までとは違う陽一の瞳がそこにあった。心配そうに見つめながらも、初めて珠里を見たとでもいうように凝視してくる瞳が。 「あぁ、御礼ね。もちろんキスよ。ハグもあるけれど……。あっ、まさかそれ以上の御礼をしてるとか思った?」
 肩を竦めて、笑みを浮かべる。
「そこまで自分を安売りなんてしないわ。病気持ちがいたら、それこそ自分を傷つける事になるもの。もちろん、それ以上を望む人もいたけれどね」
 カランと氷とグラスがぶつかる音が、陽一の手から聞こえた。その手は強くグラスを掴んでいたが、微かに震えてもいる。
「珠里……、昔のお前はあんなに可愛かったのに! どこまで自分を堕とすつもりなんだ? もし阿久津や水嶋がこんなお前の姿を知ったら…」
「あら、兄さんは何となく気付いているんじゃない? 一貴さんとは、最近会ってないから知る事もないわね。ほらっ、恋人の響子さんが兄さんと出歩いた事があったでしょ? あれ以来ギクシャクしてるみたいだし」
 兄が一貴の恋人でもある響子を誘ったのか、その反対なのかはわからないが、それが発覚して以来一貴は阿久津家に来なくなった。
「水嶋と以前のように頻繁に会えなくなったのは、あの女とは全く関係がない。学生時代と社会人とでは全然違うんだ」
(あの頃とは違う? ……えぇ、そんなことは十分知ってるわ。でも、陽一だけはこうやってわたしを心配してくれる)
 だからと言って、妹を気遣うような気持ちなら心配なんてして欲しくない! 珠里の兄は、たった一人だけで十分だ。
 話を終えるように、珠里は手で弄んでいた箱のリボンを解き始めた。
 透明の蓋を開けると、一瞬で二人の間に漂う空気が変わった。
 珠里がどんな反応を見せるのか、気になって仕方ないのだろうか? 静かにこちらを見つめているのが肌で感じ取れた。
 だが、それに気付いていても、珠里は目の前にあるゴールドのピアスから目が離せなかった。
 揺れるタイプのチェーンで、先にゴールドとピンクゴールドの輪が付いている。とても華奢に見えるピアスだが、実際に耳元で揺れたら洗練された女性に見えるだろう。
「……あ、ありがとう。とても素敵だわ!」
 ピアスのプレゼントは、お客から貰った事がある。
 でも、それらは珠里が派手な性格であろうと見越した大ぶりな物ばかりだった。こんなにも繊細なピアスは、買った事も貰った事も身に付けた事もない。
「でも、どうして?」
 そのピアスを台座から抜き取ると、珠里は掌に置いた。
「誕生日だっただろ? 俺はその時仕事で日本にいなかったから」
「でも……どうして今になって? 誕生日プレゼントなんて中学生の時以来なのに」
「……何故、だろうな。それを見た時、珠里に似合いそうだと思って」
(やだ……どうしてそんな風に言ってくれるの? アクセサリーを見てわたしの事を思いだしてくれたって事が、どれほど嬉しいか!)
 でも、それは妹のように思っている……って事。
 思わず涙ぐみそうになった珠里は、瞼を綴じて涙を振り払った。
「こっちに渡してくれ」
 そう言うと、陽一は珠里の手からピアスを奪い取り、自然に珠里の髪に触れた。その行動にビックリして言葉を発するのを忘れた珠里を見ながら、彼は耳朶に触れてきた。
「こんな物……珠里には似合わない」
 陽一の顔が、すぐ真横にある! 彼の吐息が肌を擽るこんな近くまで!
 しかも、今までこんな風に彼から触れられた事がなかったので、珠里の心臓は口から出そうな程バクバクし出した。
 な、何? これはいったい……どういうことなの!?

2008/11/18
  

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