『初恋の棘』【2】

 この時、珠里はまだ恋をした事に気付いていなかった。ただ、陽一の取った行動ばかりに気を取られていた。
 その時の事を考えると胸がドキドキし……その夜は一睡も出来なかった。もし、女友達と恋の話でもしていれば、簡単に自分の気持ちに気付いただろう。
 でも、そういう話をしてこなかった珠里には、すぐに自己分析をする事が出来なかった。
 傍目にはわからないが……傷を負った本人だからこそわかる、微かに残った傷に指を走らせた。
(陽一は、友人の妹を手当てしただけだったのに、わたしは…たったそれだけで陽一を男と意識してしまい、彼に恋をした)
 何とも思われていない陽一に、恋をしてしまったのだ。

 実際は手当てだが、掌にキスをされてからというもの、珠里は陽一の事を避け始めた。
 そんな事をしたのは、生まれて初めてだった。
 休み時間になるとすぐ教室から飛び出し、廊下を走り回っていた珠里だったが、怪我をして以来大人しくなった。
 その為、クラスの女子が恋の話に花を咲かせてる和に入って、初めて自分のこの気持ちが恋だと知ることが出来た。
 もやもやとした、それでいてドキドキと高鳴る症状が恋だとわかると、珠里は妙にくすぐったい気分になり高揚した。
 陽一に会いたい!
 理由がわかった途端、珠里は昼休みになるとすぐに高等部の敷地へ向かった。彼を避けだしてから二週間も経つが、とりあえず陽一に謝りたかった。
 陽一たちがいつも高等部の庭園に集まるのを知っていたので、珠里はそこへ向かって走った。
 息を弾ませながら庭園へいく途中の花壇に差しかかった時、珠里はハッと立ち止まった。
 花に囲まれたその場所で、高等部の男子と女子がキスをしていた。男子の左手は女子の腰に触れて抱き寄せている。
 キス……あれが、キス。
 珠里はその光景にドキドキして、ボ〜と見とれてしまった。
 だがそのキスが終わり、男子が顔を離したのを見て、珠里は頭をガツンと殴られたように呆然としてしまった。
 その男子は、陽一本人だった。
 陽一に、彼女がいたの? いつ? いつから?
 視線を感じたのか、陽一が顔を上げた。
 高等部敷地内に、中等部の学生が来る事は滅多にない。その場所にいた珠里と視線がぶつかると、陽一は少し驚いた表情を見せたが、しばらくすると大人びた微笑みを見せた。
 そのまま指を口にあててシーッという動作をすると、陽一はウインクをした。

 凄いショックだった。
 いつも珠里に見せてくれいた陽一が、そこにはいなかったから。今まで珠里が見てきた陽一の姿は嘘で塗り固められて、彼女といるその姿こそ本物だとわかったから。
 珠里は、棘の刺さった場所が再び疼くのがわかった。
(確かに陽一はわたしの傷の手当てをして、棘を抜いてくれたかも知れない。でも、陽一はわたしの心にチクリと痛む、辛くて苦しくて涙が出そうな……棘を刺した)
 誰にも癒す事の出来ない痛みを……
 心の中では強烈な憤りが生まれていたが、珠里はそれを意志の力で押し込めた。
 その行為が、珠里を成長させたのだろうか?
 幼さが残っていた珠里の表情は、まるで憑き物が外れたように一変した。女の子が殻を破って、大人の階段へ一歩踏み出したように。
 珠里はクルッと背を向けて、慌てる事もなく中等部へ向かった。高等部の男子生徒が珠里に視線を向けていたが、珠里はただ真っ直ぐ前を向いて歩いた。
 表面上変化はなくとも、心の中では激しく泣いていたから。


 珠里は当時の思い出に再び蓋をすると、たばこの灰を落とし熱いアメリカンコーヒーを啜った。
(バカなわたし。あれで陽一がプレイボーイだと知ったのに、彼に反発するしか対抗出来なかったなんて。陽一の本性がわかったのに、余計彼の事を忘れられなくなったなんて)
 初めて恋を知ったその相手こそ、恋をしてはいけないような男だったのは、不運だとしか言いようがない。
 普通はそこから学んで成長していくようなものだが、珠里は未だ中学生の時の恋を引きずってる。
 珠里に恋をさせた陽一が悪いんじゃない、それはわかってる。
 陽一が珠里ではない他の女と付き合っても、それは仕方のない事。珠里は、そう割り切ってたはずだった。だからこそ、珠里も高校生になった時は陽一以外の恋人を作った。
 二人の接点は、兄を通してだけになる筈だった。
 それなのに、陽一は未だに兄貴面して珠里の行動を見張ってる。
(どうして放っておいてくれないの? 陽一が兄の友人だという事は、逃れようのない事だけど、大人になったわたしの事はもう構わないで欲しい! 放っておいて欲しい!)
その時、心の中でもう一人の自分の声が囁いてきた。

……でも、本当にそうなの? 陽一がカメラマンになりたいと知っていたから、珠里はモデルになったんじゃなかったの? 内緒で始めたデートクラブを彼が突き止め、珠里と会う為だけに予約入れてくるのを、心の中では楽しみにしていたんじゃないの? 彼が顔を見せる度、嬉しくて仕方なかったんじゃないの?

 うるさい、うるさい、……うるさいっ!
 だから忘れられないんじゃないの! 忘れたいのに、陽一が忘れさせてくれないんじゃない!
 珠里は、再びたばこを吸った。
 心の声を、煙に巻いて外へ追い出すように。
 こんな風にたばこを吸う珠里を、陽一は毛嫌いしている。女がたばこを吸うのを、許せないのだ。
(誰が、止めてやるもんか! ……陽一に嫌われる為なら、何でもしてやる。だから、わたしの側へは近寄らないで!)
 もう自分ではこの気持ちを止めることが出来ず、珠里は降参するように片手で目を覆った。その隙間から、静かに涙が零れ落ちる。
 珠里はその涙の意味を理解したくなかった……。だから、何も考えないようにするために、自分の殻に閉じ籠もることしかできなかった。

2006/01/29
  

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