開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)

『Te amo 〜愛してる〜』【14】

――― エンリケが日本へ出発する3日前。
 
 side:パブロ
 
『エンリケを手に入れられるかどうかは……イレーネ、君自身の手で決まる』
 大胆なスリップドレスを着こなすイレーネは、パブロの目から見てもとても情熱的で美しい女性に見えた。
 挑戦的に光るその瞳を見ているだけで、彼女は自分の欲しいものならどんな手を使ってでも手に入れてきたとわかる。
 女という最高の武器を使ってでも。
 きっとベッドでも最高に素晴らしく、自分の欲望にも忠実で淫らに振る舞うのだろう。
 エンリケの欲求を全て受け止められる愛人という立場ならそれもいいが、妻となると話は別。
 
 ファリーノス海運≠フ頂点に立つエンリケの妻は、従順で淑女な女性でなければならない。
 
 夫をセックスで骨抜きにするような、欲深いタイプの女は絶対にダメだ。
 だが、イレーネは奔放でありながらハビエル家の令嬢。身分は十分につり合う。
 ここは我慢するべきかもしれない。
 彼女自らエンリケを手に入れたいと望めば望むほど、エンリケと日本人女性を切り離せる駒として使えるからだ。
 
 エンリケが言ったとおり、祖母から受け継いだ宝石の威力を侮ってはいけない!
 
『絶対に何とかしてみせます。彼をもう一度手に入れられるのなら……わたしは卑劣なことだってしてみせる』
『だが、君は一度エンリケを裏切った。というより、金に目がくらんだ』
 イレーネはビクッと躯を震わせ、パブロを凝視した。
『おや? まさか私が知らないとでも? エンリケがこのファリーノス海運≠ナ働くようになり、私が自分の息子より甥を目にかけていると知れ渡った途端、君から接触があった。つまり、再び鞍替えをしたということだろ?』
『おじさまっ!!』
 イレーネは喉に手を持っていき、恐怖に引きつった顔でパブロを見る。
『別に気にしなくていい。確かに、君は男性的でとても魅力的なエンリケに欲望を抱き、思い通りに恋人の座を手に入れた。だが、彼が果樹園の三男坊だとは思いもしなかった。金に不自由はしていない君だったが、手を汚す果樹園の息子では釣り合いが取れないと思い、次期社長になるだろう男に鞍替えをした。まさかその人物が、エンリケの従兄弟だとは知らずに』
 イレーネは放心した表情を隠しはせず、ソファに崩れ落ちた。
『知って、いたんですか?』
『もちろん。……野心を持つのはいいことだよ。そうやって会社は成長するものだ。だが、果たしてエンリケはもう一度君を受け入れるだろうか? 果樹園の息子とはいえ、彼は誇り高いファリーノスの血を受け継いでいる。ルイスの血よりも濃く……な』
 イレーネは、シルクに皺が寄るのも構わずドレスをギュッと握った。
『最初は、名声に惹かれました。でも、わたしはやっぱりエンリケのことが忘れられなかった。だから、彼を取り戻したい、彼の妻になりたいんです』
『エンリケを忘れられなかった……か。さて、どちらの想いがより強いのかな?』
『えっ?』
 パブロの言葉に、イレーネの眉間に皺が刻まれる。
 彼女は知らないのだろう。イレーネと付き合っていた当時から、エンリケの心には日本人女性がいたことを。
 口を閉じても良かったが、イレーネの存在を利用するのであれば、ここで隠しても仕方がない。
 パブロは一度気怠くため息をつき、目線を上げた。
『エンリケは、幼いころに約束していた女性と会うために、その女性を手に入れるために日本へ行くそうだ』
 先程の堂々した面影がすっかり消えているイレーネに、パブロは威圧感たっぷりに鋭い眼差しを向けた。
『エンリケは、あの持ち前の魅力で、その女性を手に入れるかもしれない。そうなれば、君との婚約は白紙に戻るだろう。だが、もしその女性を手に入れられなければ……エンリケのフィアンセは君になるだろう。さぁ、どうする?』
 イレーネは歯を食い縛り、気位の高い女性のように顎を上げる。
『愚問ですわ、おじさま。先程も言いましたように、どんな卑劣な手段をしても、エンリケを手に入れます』
 パブロはニヤッと笑った。
『それならば、エンリケと日本へ行ってくるがいい。彼のフィアンセとして行動できるように手配しよう。もちろんエンリケはそれを無下にはできない。何故なら、ハビエル家と諍いを起こすような真似をあいつはしないだろうからな。そうそう、その日本人女性を手に入れられなかったら、エンリケのフィアンセはイレーネ、君だと既にあいつには言ってある。それをエンリケが呑むかどうかは、君の努力次第だが』
 イレーネはすくっと立ち上がり、挑むような目をパブロに向ける。
『わたし、絶対……エンリケのフィアンセとしてスペインから戻ってきます』
 イレーネはそう宣言すると、パブロに背を向けて社長室から出ていった。
 
 パブロは椅子を回転させ、壮麗なバルセロナの町並みを眺めた。
『おばあさん、俺を許して欲しい。会社のために……こうしなければならなかったんだ』
 ふたりが日本へ出発する前にもう一度イレーネに会い、宝石の件も話しておこうとパブロは思った。
 
 
* * * * *
 
 side:イレーネ
 
 エンリケとフェルナンドが、ふたりで宿の散策へ出かけている間、杏那は階下のソファでとタブレット端末と資料に向き合っていた。
 その姿を、イレーネは一階と二階を繋げる階段で足を止めて眺めていた。
 
 エンリケはいったい杏那のどこが好きなのだろう。
 
 どこからどうみても妖艶な美女とは言えない。
 杏那を見て、エンリケの好みは子どもっぽい女性かと思った。でも、彼の過去の女性関係から、それは違うと断言できる。
 特にエンリケが付き合っていたアメリカ人のモデルは、羨望してしまうほど美人だった。
 あれはエンリケがスペインに戻ってきたころ、父を通じて彼と知り合った時。
 エンリケの傍には、海を越えて彼を追いかけてきたそのモデルがいた。
 彼女には勝てないと思って引き下がったが、そのモデルと別れたと風の便りで知ってエンリケに近づき、やっと彼と付き合えるようになった。
 あの時、彼の心にあるそのモデルと張り合おうと頑張っていたが、間違っていたのだろうか。
 
 イレーネが敵愾心を燃やす相手は、色気も個性もない、この子どもっぽい日本人だった?
 
『あっ、お茶でも淹れましょうか?』
 視線、もしくは殺気を感じたのか、俯いていた杏那が急に振り返り、階段の途中で立ち止まるイレーネを見る。
『いらないわ、そんな苦くて緑色したものなんて!』
『では、コーヒーでも頼みましょうか?』
『いらないって言ってるでしょう!』
 杏那はどうしてイレーネを気遣うような態度を取れるのだろう。
 傍目から見ていても、杏那がエンリケを好きなのはわかる。
 普通なら傍にいるイレーネを疎ましく思うののに、どうして何の反応も見せないのか。
 イレーネは、感情を表さない杏那が憎くてたまらなかった。
 
 どうすれば、彼女の顔が嫉妬で醜く歪むのを見られるのだろうか。
 
 今まで、幾度となく意地悪をしたが、杏那は場をわきまえているのか、それともイレーネとエンリケの仲を理解しているからか、決して怒りを表に出さない。
 イレーネが恋い焦がれてやまない、乱暴で激しい情熱的なキスをエンリケとしているのに、どうして杏那はイレーネがエンリケに寄り添っても冷静でいられるのか。
 だが、ただひとつだけ反応した。エンリケとイレーネが混浴すると言った時だ。
 その路線で責めるのが、一番手っ取り早いに違いない。
『ねぇ、杏那。ここにスパはないの? 温泉というちょっと見た感じ古い場所でエンリケの目に肌を晒すんだから、綺麗にしたいの。彼が触れる肌はスベスベにしておきたいし。……だって、彼ったらいつもわたしの滑らかな肌に触れていたいみたいで……。ふふっ、エンリケったら、いつも素晴らしいって言ってくれるのよ』
 イレーネのその言葉に、杏那は顔をしかめる。
 ビンゴだ。
 もっと挑発しようとイレーネが口を開こうとするが、杏那は目を伏せて、タブレット端末に触れた。
『ごめんなさい、この宿にはそういうものはないの。もし良かったら……近くにスパリゾートがあるので、明日案内してもいいわ』
『明日!? 今夜エンリケと一緒のお風呂に入るのよ。今日じゃないとダメよ!』
 杏那はタブレット端末の画面からイレーネの方に顔を向けると、頭を振る。
『今日は無理だわ。もうすぐお夕食の時間だし、その後はその……、予約をしているでしょ?』
 最後の言葉を言う時、杏那は俯いた。
 瞬間、イレーネの顔に勝ち誇った表情が浮かぶ。
『なら仕方ないわ。お風呂場で、エンリケにたくさんローションを塗ってもらうことにするから。エンリケって、わたしの胸からお腹……あの部分に至るまでローションを塗りながらマッサージをするのが好きなの。わたしが彼を求めて何度も喘ぎ声を上げるのを聞きたいみたい』
 俯いていても、杏那の頬が真っ赤に染まるのがわかる。
 
 いい気味!
 
『いいわ、ありがと。今杏那と話して、今夜がとても楽しみになったから』
 イレーネは満足そうにダイニングテーブルへ向かうと、その上に置いてあったイチゴを掴み、杏那の方を向きながらかじった。
 赤い汁が、イレーネの口角から滴り落ちる。
 それを美味しそうに舌で絡め取る仕草はとてもエロティックに見えるとわかっていて、いやらしく舌で唇を舐める。
 エンリケとのセックスを、杏那が想像すればいい。そして、勝手に嫉妬すればいい。
 イレーネは歓喜で叫びたくなる思いを抱きながら、杏那に背を向けると、また階段を上がって2階の部屋に戻った。
 
 
 
 side:フェルナンド
 
 19時の夕食。
 豪華な食事がテーブルの上に並んでいても、杏那の気持ちはどこか沈んだままのように見える。
 逆にイレーネは、あらゆる方法でエンリケに欲望を抱かせようと誘惑していた。
 俺たちがいない間に、もしかして何かあったのか? ――そう思いながら、フェルナンドはイレーネの顔を凝視する。
 彼女の頬はピンク色に染まり、その姿はバラの花のように咲き誇っている。
 そんなイレーネを綺麗だと言う男もいるかもしれないが、フェルナンドからは病気にやられて変色した花にしか見えない。
 
 外見は美しくとも、心は腐っている。
 
 フェルナンドは、杏那に気落ちする必要はないと助言をしたかった。
 だが、エンリケがいろいろな策を練っている以上、フェルナンドはどうすることもできない。
 外を散策している時、仕事を離れたら親友として接してくれるエンリケが言っていた。
 今夜、杏那を手に入れると。
 フェルナンドは彼を抱き締め、上手くいくように背中を叩いた。
 エンリケとイレーネの過去を知るフェルナンドとしては、どうしてもイレーネを妻にして欲しくなかったのだ。
 今までは、イレーネがエンリケの邪魔をしないよう気を配るようにしてきたが、今夜はさらにその注意が必要だろう。
 フェルナンドは、ふたりの恋が上手くいくよう願った。
 エンリケが肌身離さず付けている……ネックレスのある位置を見つめながら。

2008/03/31
2013/09/10
  

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