開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)

『Te amo 〜愛してる〜』【13】

 今日から、箱根温泉への2泊3日の旅。
 出発は午後からだったので、杏那は午前中会社へ寄り、最終確認の計画書を提出した。
 予定地は、奈良時代に開湯した歴史ある古湯。東京からほど近い場所であれば、移動の負担も少ない。
 そんな理由から温泉地を決めたが、上司も杏那の心配りに喜んでくれた。
「今回は泊まりになるけど、くれぐれも気を付けてね。24時間、気を抜いたらダメだからね」
「はい!」
 杏那は上司の言葉に力を入れて頷き、エンリケたちが泊まっているホテルへ向かった。
 
 
 ホテルへ到着するなり、目に入る黒塗りのハイヤー。
 この車はきっと、今回杏那が手配した車に違いない。
 杏那はそちらへ向かうが、ふと足が止まる。昨日まで一緒だった、気心知れた運転手とは違う男性が座っている。
「あの――」
 運転席に座る男性に会釈してから、杏那は声をかけた。
 頼んでいた会社だとわかり名刺交換をし、そこで会社の都合で運転手が変わったことを知らされる。
 予定表以外の外出があるかもしれない旨を話し、「3日間どうぞよろしくお願いします」と挨拶した。
 その後は運転手に手荷物を預け、杏那はロビーに入った。 
 フロントでエンリケたちの部屋に連絡を入れてもらうと、数分後にはもう全員がそろう。
 杏那を見るなり上機嫌なエンリケ、そんな彼の後ろに従う無表情なミスター・サンチェス、そして綺麗な顔を歪ませながら憎々しげな目で杏那を見るイレーネ。
 
 これから大変な3日間になるかも。
 
 杏那は苦笑いを隠すように少し俯くが、すぐに表情を改めて彼らをハイヤーへ案内した。
 予感は道中から的中。
 車内の空気は、どこか妙に変だった。感情を刺激されるピリピリムードとはまた違い、冷たい空気が張り詰めたような場の雰囲気にどう口を挟めばいいのかわからない。
 関わらないよう窓の外を流れる景色を眺めていたが、杏那はこっそり深呼吸をすると、状況を把握するためゆっくり車内を見回した。
 4人が向かい合う席なので、イレーネとエンリケの表情はよくわかる。
 イレーネは下半身の形を露にするぴったりとしたジーンズに、谷間を強調したインナーを着ていて、男心をそそる服装をしている。
 いつものなら余裕の表情でエンリケにしなだれかかるのに、その表情からはどこかイライラしているように見受けられた。
 エンリケは腕を組み、何かを探るようにまっすぐな目を杏那に向けている。
 
 どうしてそんな風に見つめるのだろう。 昨日、何か間違いをしただろうか。それとも、今日会ってから彼の気に障るようなことをした?
 
 杏那の隣に座るミスター・サンチェスに訊ねてみたい気もするが、彼はあえてエンリケと杏那のことに口を挟まないと決めているのか、外の風景に目を向けて一切口を開かない。
 わからないのであれば、もう何も考えるのをやめよう。
 久しぶりの温泉で日頃の疲れを癒す!
 その間に、エンリケと心の交流ができれば――そんなことを思いながら、杏那はまた外の景色を眺めた。
 
 杏那が選んだ温泉宿は、箱根でも最も高所に位置する温泉地で、眼下には芦ノ湖はもちろん、箱根外輪山の山並み、晴れた日には房総半島まで見渡せる離れの棟が立ち並ぶ宿だった。
『杏那、荷物を持ってあげよう』
 エンリケはイレーネがいるのに杏那の荷物を手にし、そのまま杏那の背に触れて宿へ歩いた。
 今までと違うエンリケの態度に、杏那は思わず息を呑み、慌てて後ろを振り返る。
 イレーネの憎々しげな目と合うが、そんな彼女にミスター・サンチェスが声をかけていた。彼女の荷物を受け取り、エスコートを買って出ている。
 これでいいのだろうか。フィアンセをアシスタントのミスター・サンチェスに任せていても。
 
 この1週間は、全く逆だったのに……
 
『エンリケ。イレーネのことだけど、これでいいの? 彼女――』
『いいんだ。杏那は何も心配しなくていい。ただ、俺だけを見てくれ』
 これも、初めてだ。イレーネがいるのに、彼女よりも杏那の気持ちを気にするのは。
 傍にいるイレーネのことを考えれば、嬉しいと思ってはいけないのかもしれない。
 でも、エンリケのまっすぐな気持ちを受けて、自然と心が高鳴るのを止められない。
 
 イレーネ、ごめんなさい。エンリケがスペインに戻るその日まで、彼との時間を大切にさせて! ――言葉にできない思いを心の中で言いながら、杏那は口を閉じ、出迎えに出てくれた女将や仲居に挨拶をした。
「3日間、お世話になります」
 さらに続けて、彼らに日本語は通じないので、何かあれば杏那に話してほしいと伝える。
 それから、この宿の説明をする女将の言葉を杏那が通訳しながら、予約した一棟造りの離れへ向かった。
『タイムスリップしたように感じるよ。それにとても情緒溢れている』
 感慨深げにエンリケは言い、幻想的な木のトンネルを眺める。
『何よ、ただの田舎じゃない。都会じゃないわ。こんな場所へ連れてくるなんて、いったい何を考えているのよ』
 後ろから、不満いっぱいのイレーネの声が響く。
『文句があるのなら、東京へ……スペインへ戻ればいい。フェルナンドが喜んで送ってくれるだろう』
 イレーネが何も文句を言わず、そっぽを向いただけで終わったことにも驚いたが、エンリケが彼女に放った強い言葉にもびっくりした。
 
 やっぱりふたりの間に何かあったのだろうか。
 イレーネを突き放すような言葉を、エンリケがここまで口にするなんて……
 
 杏那が通訳してくれるのを女将が待っていたが、杏那自身この状況に戸惑っていたので、ただ苦笑いで返すしかできなかった。
 女将はエンリケとイレーネの声音から、何かしら行き違いのケンカをしたのだとわかったのだろう。
 それ以上何も杏那に訊こうとはせず、女将は宿の前で足を止めた。
「こちらが、お泊まりいただくお部屋になります」
 それは木造2階建てで、外見は昔の蔵みたいだったが、中に足を踏み入れると、まるで明治時代にタイムスリップしたような、和洋が見事に組み合わされてとても素敵だ。
 目の前には豪華な革張りのソファがあり、奥にはダイニングテーブル、その奥は座敷となっている。
「2階は寝室が2部屋となってます」
 杏那は女将に頷くが「布団一組をお願いしていましたけど――」と訊ねる。
 上階はエンリケとイレーネが使うが、階下の座敷はミスター・サンチェスが使うからだ。
「座敷の押し入れに入っていますが、仲居が伺いますのでお任せください」
 杏那はホッとして胸を撫で下ろした。
 この部屋はあくまで顧客が泊まる部屋。杏那は本館に泊まるので、すぐに対応できないが、細かいところまで従業員が対応してくれるようなので、杏那も少しは肩から力を抜けるだろう。
「夕食は19時からです。温泉の注意事項等こちらに書いておりますので、大築さまからご案内いただけますでしょうか?」
「はい」
 杏那がパンフレットを受け取ると、女将はテーブルに用意されていた湯のみに、熱いお茶を淹れてくれた。
「それでは、どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」
 杏那が女将を見送ってから振り返ると、エンリケとイレーネはもうソファに座っていた。
 ミスター・サンチェスは、エンリケの横に立っていたので、杏那は座るように彼を促す。
『温泉の説明をしますね。男湯と女湯に分かれている温泉と、混浴となっている温泉、あと貸し切り用の温泉があります。日本の温泉は水着着用できませんのでご注意ください』
『ちょっと待って、混浴も裸なの?』
『はい。もし誰にも邪魔されずお入りになりたければ、貸し切り用の温泉を予約します』
『じゃ、予約してもらおうかしら。エンリケと入ればいいんだし。ねっ』
 エンリケと!?
 杏那は問うようにエンリケを見るが、彼は何も言い返そうとはせずただイレーネを見ている。
 わたしには、何も言う権利はない――奥歯をギュッと噛み締め、ダメよ! と声を出さないようにしてから、杏那は視線をパンフレットに落とした。
『それでは、22時ごろの予約でよろしいですか?』
『ええ、それでいいわ』
 杏那は、パンフレットにその時間を記入した。
『杏那、混浴には女性も入ってくる?』
 ミスター・サンチェスに言われ、杏那は微笑みながら頷いた。
『もちろん。だから混浴なの。ただ……ミスター・サンチェス好みの女性が入ってくるとは限らないから。老若男女だからね』
「OK!」
 嬉しそうに頷くミスター・サンチェスに、杏那も朗らかに口元を緩めた。
『部屋付きの温泉もあるので、そちらもどうぞ入ってくださいね』
 杏那は立ち上がると、エンリケとイレーネの荷物の方へ向かった。
『お部屋に持って行きますね』
 ミスター・サンチェスが杏那を手伝おうと立ち上がったが、エンリケの方が素早かった。
『俺が持とう』
 だがエンリケは自分たちの荷物だけでなく、杏那の荷物まで全て持った。
『えっ? それ、わたしのバッグ……あっ、ちょっと、エンリケ!』
 杏那がいくら呼びかけても、エンリケは足を止めず2階へ通じる階段を上がり始めた。
 
 早く自分の荷物を取り返さなければ!
 
 杏那はエンリケを追って2階へ駆け上がった。
『エンリケッ!』
イレーネの叫び声が天井の高い部屋に響くが、それでもエンリケは振り返らなかった。
 ゲストルームにイレーネの荷物を置くと、メインルームに杏那とエンリケの荷物を置いた。
『いいだろ?』
「えっ?」
『杏那は俺と同じベッドルーム。階下でフェルナンドと同じ部屋で寝るのは許さない』
 その言葉で、やっとエンリケの考えがわかった。
 イレーネの反感を買ってでも、杏那が他の男性と同じ部屋に寝ることを拒みたかったのだろう。
 それぐらい、杏那を想っているということ。
 心が温かくなるのを感じながら、杏那はさらにエンリケに近付いた。
『心配してくれてありがとう。でも、わたしは本館に部屋を取ってあるの。だから……わたしのバッグを部屋に持ってくることはなかったのに』
 エンリケの頬が、かすかに血色が良くなる。
 
 もしかして、恥ずかしがっている? 確認せず行動してしまったから?
 
 エンリケの意外な発見に嬉しくなって、杏那は身を乗り出して彼に微笑んだ。
『ペルドン(ゴメンネ)=Aイレーネに誤解させてしまったね』
 だがイレーネの名を出すと、エンリケの表情が一瞬で変わった。
『イレーネのことは気にしなくていいと言っただろ? そして、ひとりで泊まる必要はない。俺とこの部屋で寝ればいい』
『エンリケ! でも、イレーネが』
『もう、イレーネの話はやめてくれ。……俺は、ずっとこうしたかったんだ』
 エンリケは杏那をその腕の中へ引き寄せると、我が物顔でキスをした。
「……っん!」
 まさか、 こんな場所でそうされるとは思ってもいなかった。
 でも、そうされて嬉しくないわけではなかった。むしろそのキスをずっと待っていたと言っていい。
 杏那は彼の背中に両腕を回し、さらに顎を上げ深いキスを求める。
 たったそれだけでエンリケの口から、喜びの声が漏れる。
 ふたりきりだと安心していたのだろう。
 杏那はこの瞬間を大切にしたくて、さらに身を寄せた。
 
 ふたりは互いに夢中で、イレーネがそっとドアを開けたのも気付かなかった。
 唇を噛みしているイレーネのその瞳には、憎しみと怒りと……涙が浮かんでいた。

2008/03/29
2013/08/20
  

Template by Starlit