開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)

『Te amo 〜愛してる〜』【9】

 杏那は乱れた姿のまま躯を起こし、机の下にある携帯へ手を伸ばしながら一歩踏み出した。
 だが、足がガクガクして力が入らず、その場にぺたっと尻餅をついてしまう。
「あっ!」
 こんな経験も初めてだった。
 足腰が立たなくなる……という言葉は聞いたことあるが、まさか自分が経験するなんて思ってもいなかった。
 その時、後ろからくぐもった笑い声が聞こえた。
 
 わ、笑われてる!
 
 羞恥で躯が燃えるように熱くなる。
 でも、何も文句を言えない。
 照れた顔を見られたくなくて俯いた瞬間、杏那はエンリケに顎を掴まれて顔を上げさせられた。
「な、何? ……っ!」
 それは、あっという間だった。
 エンリケは杏那に顔を寄せ、甘いキスを唇に落とした。
「Mi Amor ..... (俺の愛しい人)」
 たったそれだけで躯が蕩けてしまいそうになる。
 このまま身を任せたい気持ちになるが、まだ鳴り続ける携帯が気になって仕方がなかった。
 エンリケのキスを自分から拒むと、杏那は片手で胸を隠しながら携帯に手を伸ばした。
 絶対に携帯ストラップが見えないようにして、相手が誰なのか確認もせずにボタンを押す。
 
「はい」
『杏那? 俺、大輔』
 杏那は鋭く息を吸い込んだ。
「富島、さん?」
 愕然とした。
 付き合っている人がいるのに、杏那は今の今まで彼のことをすっかり忘れていたからだ。
 浮気現場を目撃されたかのように、エンリケの手でずらされたトレーナーを杏那は急いで下ろして乳房を隠す。
「ど、どうしたの?」
『ほら、通訳の仕事が入って忙しくなるって言ってただろ? あれからもう一週間経ったから、そろそろ邪魔してもいいか思ってさ。……寂しかったんだからな。メールのひとつも返してくれないんだから』
「あっ、ごめんなさい……」
 彼のことを忘れていた、とは言えなかった。
 しかも、今この時でさえ気持ちは富島よりエンリケの方へと傾いている。
 杏那は、思わず目を手で覆った。
 
 どうしよう! わたし……富島さんを愛していない。初めから愛していなかった! ――それが自分の正直な気持ちだと、たった今気付かされた。
 
 エンリケと一緒にいられるのは、あと一週間だけ。
 だからと言って、 杏那は富島を簡単に裏切ってはいけなかった。
 富島との仲を清算した上で、エンリケに向き合うべきだったのに。
 まず、やらなければいけないのは、富島に自分の気持ちを告げること。
 それをする前にエンリケに想いをぶつけるなんて、順序が違う。
 きちんと富島に話そう。
 
 真実の恋を知ってしまったから、もう富島とは付き合えない。
 
『イヤ、いいんだ。ほら、あんなあとで……ずっと連絡がなかったし、ちょっと心配になってさ。うん、わかってるよ、杏那が望んでいた仕事だもんな。あと残り一週間頑張れよ。それが終わって会える日を楽しみに待つから』
「待って!」
 その時、異変を知らせるように肌が粟立った。
 エンリケが、杏那の真後ろに立ったのだ。
 
 何をするつもり? 今触られたら……!
 
 杏那は何もしないでと祈りながら、ギュッと瞼を閉じる。
 だが、エンリケの手が、肩から胸の前へと回ってきた。自然と躯がビクッと震える。
 彼氏が電話の向こう側にいるというに、エンリケの行動ばかり気になって仕方がない。
 胸をドキドキさせている杏那の目の前で、彼の手が上がる。
 首筋にエンリケの手が触れて、ハッと息を呑むが、彼はただキャミソールの紐を掴んで、首の後ろで結んでくれただけだった。
 杏那は思わず振り返って、エンリケを見上げる。
 エンリケはただ優しげな笑みを浮かべ、再びベッドに座り、他のアルバムへと手を伸ばし始めた。
 
『……んな? おい、杏那? どうしたんだ? 杏那?』
 杏那は我に返って意識を大輔へと戻した。
「ごめんなさい、今……ちょっと手が離せないの」
『もしかして、家?』
「うん」
『じゃ、今から行っていいかな? ちょっとだけでも会えたらと思って』
「ダメよ! ……あっ、実は……お客様が来ていて」
『そうなんだ? ……ちょっと残念だな。実は今――』
「富島さん!」
 杏那は、何かを言いかけた富島の言葉を遮るように名前を呼んだ。
『うん? 何、どうした?』
「あの……明日、時間が取れる?」
 杏那は、瞼をギュッと閉じる。
『俺は大丈夫だけど、杏那は時間あるのか?』
「うん、明日は東京案内をするんだけど、夜は抜けるようにするから」
『わかった。ありがとう、杏那。俺との時間を作ってくれて』
 杏那は痛む胸に拳を押し当てて、その痛みを受けとめようとするが上手くいかない。
 それもそうだろう。カノジョとして最低な行動を取っただけでなく、優しい彼を傷つけようとしているからだ。
「また連絡するわね」
『ああ、待ってるよ。……杏那?』
「何?」
『大変だと思うけど、仕事頑張れよ』
富島さん……。そんなに優しくしないで。
わたしは、明日別れ話をしようとしているのに!
「じゃ、明日……おやすみなさい」
 
 杏那は電話を切ると、後ろを振り返った。
 エンリケは、どんどん成長していく杏那の姿を心に留めようとしているのか、アルバムに魅入っている。
 高校を卒業した杏那、大学に入学したのと同時に髪を染めた杏那、友達と楽しそうにしている杏那を。
 そして、成人式の写真でエンリケの手が止まった。
 杏那が家族と写っているのもあるが、初めて付き合った彼氏がそこにいたからだ。
 でも、それは昔のこと。
 まさか、エンリケは彼のことを気にはしないだろう。
『彼は、杏那のボーイフレンド?』
『そう。初めて付き合った彼氏で、ちょうど3年目だったかな?』
 そして元彼と別れた年でもある。
『今、彼は?』
 エンリケは、杏那が成人式で着ていた、からし色の着物を撫でるようにしながら訊ねた。
『わからないわ。頑張って働いてるんじゃない?』
 エンリケがおもむろに視線を上げて、杏那の真意を見極めようと顔を凝視してくる。
 そんな問うような眼差しをされても何も答えられない。
 杏那が肩を竦めると、エンリケは息を詰めていたのか、ゆっくり長い息をついた。
『別れた男の写真をいつまでも残しておくなんて……女は変わってるな』
『あっ! 彼のことを忘れられなくて残してるんじゃないの。わたしが写っている写真だからよ』
 エンリケは、クスッと笑みを浮かべた。
『そうだな、この写真を捨てるには……素敵過ぎる。俺がこの隣に立ちたかった』
 
 本当に?
 
 杏那は携帯を枕の下へ隠しながらベッドに座ると、エンリケの肩に手を置いてそのまま彼に凭れた。
『でも思い出して……。わたしが初めて着物を着て一緒に撮った相手は、エンリケよ』
 その杏那の言葉が嬉しかったのか、エンリケは杏那の髪にキスを落とす。
『そうだ、最初は俺とだ……。最後も俺になればいい』
 エンリケの声がくぐもって聞こえにくかったが、その言葉は確かに杏那に届いた。
 でも、いったいどういう意味だろうか。
 少し躯を起こしてエンリケを仰ぎ見ると、彼は杏那の髪に手を滑らせた。
 そのまま引き寄せられたと思ったら、唇を奪われる。
 杏那は自然とそのキスを受け入れ、彼の舌をも迎え入れた。
 エンリケはさらに密着するように杏那を抱きしめる。
『杏那……俺はもう耐えられない、エストーイ ロカ ポル・ティ(君に夢中だ)=x
 杏那は悦びの声を漏らしたが、全てエンリケの口腔に吸い取られる。
 同じ気持ちだと伝えるように、杏那はさらにエンリケの躯に身を寄せた。
 
 那々香がドアをノックするその瞬間まで、杏那はエンリケの腕の中で幸せを噛み締めていた。

2008/03/24
2013/06/18
  

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